歴史なお話(幕末)・長野主膳斬首 | よしのおもちゃ箱

歴史なお話(幕末)・長野主膳斬首

文久2年(1862)8月27日、長野主膳義言が彦根藩の牢屋敷で斬首されました。46歳


井伊直弼の国学の師であり、直弼によって彦根藩に登用されてからは彦根藩士として直弼を支えた長野主膳は、主に京での活動が多く、その活動内容から井伊直弼を動かした“影の大老”のような言われ方をします。


もしかしたらそのような面はあったのかもしれませんし、安政の大獄の大半は、直弼の指示と言うよりは長野主膳が京都の活動で知った情報による結果が多かったことも否めません。

ですので、直弼の闇の部分に関して多くの影響があった事は間違いないと思います。


しかし、主膳をかばう訳ではありませんが、井伊直弼という一人の男が惚れぬいた男であることも間違いのです。



そんな長野主膳は、桜田門外の変の後にすぐに失脚したイメージがありますが、実はそうではなく、和宮降嫁のアドバイスを幕府に行ったり彦根藩政にも参加していて、文久2年5月の段階で100石の加増(合計250石)も受けていました。


しかし、8月になり井伊政権を引き継いでいた安藤信正・久世広周政権を幕政改革の名の元に朝廷と結んだ島津久光が否定し、安藤・久世は失脚し、これを感じ取った彦根藩でも井伊直弼に近い存在だった長野主膳や宇津木六之丞などの処罰を考え始めました。


とくに主膳は、安政の大獄の首謀者として尊王攘夷の志士たちに命を狙われていたので、彦根藩士がどこの馬の骨とも分からない浪人に殺される危険性を考慮して、彦根城下の屋敷に戻った時に捕縛したのです。

文久2年8月24日の事でした。


≪長野主膳屋敷跡≫
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牢屋敷に入れられた主膳には何の取り調べもなく、苗字帯刀の剥奪、斬首、遺体は打ち捨て(埋葬禁止)が命じられ、武士の身分の証である切腹ではなく、斬首によってその生涯を終えたのでした。

辞世の句は

「飛鳥川 きのふの淵は けふの瀬と

      かはるならひを 我身にそ見る」


≪牢屋敷の跡に造られた義言地蔵≫
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主膳の遺体は埋葬が許されず、墓も明治になって井伊直弼の汚名が雪がれるまで建立が許され無かったのです。


≪天寧寺の墓≫


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≪清凉寺の墓≫
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彦根藩は、2ヶ月後に宇津木六之丞も斬首にしますが(これは別の話)、それでも10万石の減封となり、版の運命が大きく変わるのです。