時期的には和田秀樹氏の

「テレビの大罪」のほうが先に出版されている。

内容も似てはいるものの、違っている。

が、!大胆にも同じ記事であげさせていただく。

情報と思考という点でとても気になる共通点を見つけたからだ。

 

 

 

まずは「テレビの大罪」から。

 

テレビは二分割思考する。

すべてを白と黒で分けようとしている。

それをしているがゆえに、その中間、

グレーな人たちは、そのまま中途半端で放っておかれる。

 

また、テレビの意見は、かなり極端なことを言っていても、

視聴者側には 一般的な意見として受け止められてしまう。

 

それがゆえに、生きづらさを感じてしまう人が

たくさんでてしまう。

 

と 和田氏は書いておられます。

 

その昔、(以下『テレビの大罪』より引用)

「大宅壮一をはじめとする文化人たちが危惧したテレビの悪影響は、バラエティ番組やワイドショーより、教養番組やニュースのほうが

大きいかもしれません。なぜなら、視聴者が安心して内容を

信じ込んでしまうからです。

 テレビが日本人の知的レベルを落としていることは大問題です

しかし、見る人の心を蝕んでいることこそが、

テレビの 最大の罪なのです」

(引用終わり)

とありますが、これは、現在のネット社会にそのままあてはまるのではないか。

テレビ、を ネットと置き換えるだけで。

 

 

「スマホ断食」のほうはもう少し、きつめに?書いてあります。

★スマホ利用時間は ガラケーの3倍

★個人の時間を失いつつある

★暮らしがデジタル情報に還元される

★私が消えて データだけ残る

★教育の効率化はデジタル化ではない

など、普段気になっていて 気になるところが 

文章化されています。

 

スマホがなければ社会が成立しないように感じているけれど、

それって本当なのか。

・・・確かに社会人ならそうでしょう。

つながらないと 何も始まらないこともあります。

そこから仕事や生活が始まることも多いでしょう

 

 

ただ、そうなるのは、大人になってからでいいと思うのです。

 

個人が個人の独自の感性を確立させてからでも、

遅くないと思うのです。

そうでなければ、私たちは大量生産され、

消費の対象にしかならない、データの塊になっているにすぎません。

自分の感覚を育てきれないまま、

大人になり、社会に出て行くしかないように思うのです。

 

 

知識を知っているだけなのが

いいことなら、

時代が新しくなるにつれて、素晴らしい人間があふれていても

おかしくないはず。

でも、実際は、知っていても、それを次につなげることが

できない人も多いです。言ってみれば、宝の持ち腐れ、ですね。

 

「すごーい」

「かんどうするわー」

そういっていても、次の瞬間には

忘れてしまう人も少なくありません。

勿論、自分もそうです。

何かを共有する、何かを広げる、その行為の間に

「誰か」はいる。

しかし、その誰か、は、匿名性に隠されて、

「誰か」の真意は見えなくなっているのではないか。

 

著者の藤原智美氏は、終わりのほうでこう書いておられます。

「これまでの社会は 自立した個人の成長や成熟を

『読むこと』『書くこと』『生の対話」によって実現しようとしてきました。

しかし現代のネット社会は、個人の自立的思考よりも、

集団への参加とつながりを第一義的に考えるように、

人々の内面を知らないうちに変化させているのではないか。」

 

一理あると思います。

そうでない面もあると思います。

だから、せめて正しい判断力がつくまで、

子どもは、対話と選択,人間のあたたかな、緩やかな、まなざしで

育てていくべきではないか。

今の社会の変化は止められない。

だったら、対策を立てて立ち向かわないと。

それが、ネット社会での保護者のあり方の一つではないのか。

 

情報の断食。

食の断食と同じくらい、効果があるかもしれないです。

教育に限らず、日常のいろんなところに必要です。

今までの習慣が他者の言葉に踊らされてきていた、という

ことを様々な場面で再確認できます。(ちょっと言い過ぎ)

 

そして、子どもと大人の壁、

いろんなことにある境界線を

もう少し、意識する必要があると思うんです。

ネットが日常に入り込んでいる社会、

「スマホが私たちを覗いている」社会から

一線を画すために。