Le Cheerian の七草ちゃんが書いた記事を読んで、色々懐かしく思い出してしまったことがあります。


私の生まれ育った家は、スーパーより商店街のほうが近かったので、昔はよく商店街でお買い物をしていました。


今は何でもパッケージされたもので売っているのが当たり前。


メニューカードがトレイの脇に置いてあったりするけれど、なんでも一方通行。

そこに、色々な配慮はあるにしても。楽チンだけど、じっくり商品は見れるかもしれないけれど、


たとえば。


手芸店でファスナー買ったとき、なんとそこでは、

行った長さで長ーいロールになったファスナーを切って、金具を嵌め、くるっと丸めて紙袋に入れてくれていました。

リボンの量り売りで、このスカートの裾につけたかったら○○センチ必要よ、なんて教えてもらってお小遣い貯めたり。


いつもは固めの柿が好きだけど、今日は皮を割ってスプーンで食べるぐらい熟れたのを1個混ぜてとか。


みかんを箱で頼んだら、よそのお店で買ったものも一緒に配達してくれたりとか。

一山いくらでも、みかんが好きなんだけどまだ小さいから一人でまるまる1個食べられない、という話をしたら小さめのみかんだけ選んで数は1個おまけしてくれたりとか。


どこどこの店で今日は何がいいもの入ったから、早めに行ってみたらとか。


旬のものを食べるのに、ちょっと続いて食べ方変えたいときにレシピ教えてもらったり、

小骨のとり方のコツや魚の腸の取り方教えてくれたり。


手早さ、そして営業時間の長さは確かにスーパーの方が上なんですが、

融通といおうか。


思春期に、人の干渉が煩わしく感じる時期というのも確かにあるんですが、

お気に入りの洋服にシミをつけて、

それ持って「薬局」に飛び込んで、この漂白剤のほうが落ちやすいわ、手順はね…

と教えてくれるような環境は、「レジうちのパート」「品出しのパート」と細分化していない、

商店のおかみさんやおとうさんがいたからこそのものがあり。

お金は介在していても、でも親の不足分を補ってくれる存在であった、そんな「お店」の存在。

核家族化、という言葉は小さい自分から聞いていたけれど、でも、まだ


「遠くの親戚より近くの他人」


今思い返すと、地域が育ててくれた、という中に、確かに商店街というものが存在するんですよね。


最近、子供SOSという札が掛かっている商店を見かけることがあります。

嫌味な見方をすれば、人を呼び込もうとしている、というのも、確かにあるかもしれないけれど。


「風邪はやってるからね、半端ものだけど1個みかんおまけね。」


そんな言葉が本当に気持ちにしみる、今だからこそ、

個人の商店での買い物がしたくなったりします。


まとまりがないなぁ。


きっと今、暖かさに飢えてるんですね。


便利さが画一化してくると、当たり前だった風景が懐かしく、そしてもう一度欲しくなります。

それって、今風に言うと「ライフタイムバリュー」を当たり前に満足させる商売があった時代なのかもしれません。


客の顔と名前と好みと買った商品を覚えるって接客業の基本は、そういえば商店街の父さん母さんは当たり前にこなしていたんですよね。


あぁ、話題がどんどん四方山化していく。