年齢を経てふと感じる、Pureでいる事の難しさ。
若い時分は、知らずにいるからこその純粋さ、(そこには知らない故の残酷さも含まれているけれども)というものを誰しも持っている。
社会に出て、仕事をして、好きな人、馬が合う人以外の付き合いが、学生の頃とは比べ物にならないぐらい重要度が増して。
そこには、付き合いの技術、と云うものが不可欠で。
いつのまにか、本音の付き合いというものが欠落していく。
個人的に好意を持って、でも、『個人』の輪郭を思い切って出すような言葉は引かれるんじゃないかとか、迷惑そうだとか、
自分の中の思惑が絡みあって身動きが取れなくなる。
肯定の言葉が、文句をつけられない為のやんわりとした拒絶の言葉になったり、
ただの慇懃さで好意の有無を判定するのに無関係なものであったり。
距離感が掴めずに、滑ってしまってばかりだったり。
ナチュラルに、自然と、穏やかに、そこに存在することを受け止めてもらえるように。
作為とは関係なしの、Pureさが欲しいと、痛切に思うことがある。
意識してがんじがらめになるような気使いではなく、流れるように、自分から人に対して湧き出してくる感情や好意、行動。
そんなものが、自分にとっても枯渇している様に感じる。
時分の花ではなく、真の花を。
そんな言葉が、沁みてくる最近。