【8月企画】 艶が怪談百物語 ~目次~
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参加させていただいております☆
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水滴がぽつりと髪の生え際に落ちてきて、私は反射的に天空を振り仰いだ。
「雨……?でも晴れてますね。通り雨でしょうか」
「へえ、日照雨(そばえ)のようどすな」
隣を歩く枡屋さんが、片手を額に翳しながら目を細めて同じく空に視線を向ける。
不意に、空いているもう片方の手で私の手を取り、思わず息を呑んだ私の耳元に口を寄せると常より少しだけ早口で囁いた。
「すぐ止むやろうけど、せっかくのあんさんの綺麗なべべに水の染みがつくんは勿体無い。こんなに似合うてはるのに」
そうして、雨から私を庇うかのように肩を抱いて自らの胸へ引き寄せる。
空は明るいのに降ってくる不思議な雨。
湿っていく空気のせいか、枡屋さんの衣に薫きしめられている香の匂いが、抱き寄せられた胸元から立ちのぼってきた。
「あっこで雨宿りしまひょか」
少し先に見えるお茶屋さんを目で示され、私は彼に肩を抱かれたままその暖簾をくぐった。
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「こういうお天気を、そばえっていうんですか?」
雨が降っているとは思えないくらい明るい格子の向こうを見やって、さっき彼の口から聞いた耳慣れない単語を麦湯で湿らせた舌に乗せてみる。
「へえ。『狐の嫁入り』とも言いますな」
私は、イラストなんかで見るような、細いつり目のキツネが花嫁衣装を着ている様子を想像して、ちょっと笑った。
「狐の嫁入り行列は、そら豪勢なもんどす。花嫁はんは羽二重の白無垢に角隠しを着けて輿に乗ってはって、お供の者はみんな紋付きに仙台平の袴、揃いの提灯を手に持って……」
向かい合った先の枡屋さんは大きな手で湯呑みを玩びながら、その深みのある低い声でお伽噺を読むような口調で語る。
「ようさん運んどる衣装箱も、花嫁はんに差しかける台傘も、それは見事な緋色どした。
ぱらぱら降ってくる小雨がお天道はんの光できらきら光って、その中をしずしずとお狐はんらが歩いて行かはって…なんや神々しいほどやった」
私は湯呑みを手のひらで包むようにしながら、思わず声をかけた。
「なんだか枡屋さんは、実際に狐の嫁入りをご覧になったみたいなお話の仕方をするんですね」
「へえ。実際に見ましたさかいに」
「え…やだ、枡屋さんたら…」
子ども扱いして私をからかっているのかと思い、私は冗談っぽく応じる。
「ほんまどす」
予想外に、少し真剣な枡屋さんの目が真っ直ぐに私を捉えた。
ひたと視線が合った瞬間、我知らず心臓の拍動が大きくなる。
「見たことありますねん、狐の嫁入りを。四つか五つくらいの子どもの時分やけど、丁度こんな日照雨の降っとる時に、山ん中で」
枡屋さんは私の反応を窺うかのように、視線を逸らさないでいる。
何も言えずに見つめ返していると、男の人にしては長い睫毛がゆっくりと揺れ、そのまま彼は寸の間目を閉じた。
「もう、三十年近く前のことになるんやな……。
わては、近所の仲の良い友達数人と近くの山で遊んどりました。十歳くらいの子をかしらに、五、六人くらい。
その山には小さな神社があって、そこで隠れ鬼をしたり、側の小川で魚を採ったり、女の子は飯事(ままごと)したり、思い思いに遊んだもんどした」
幼い日の思い出を辿っているのか、枡屋さんのゆっくりとした穏やかな声音は耳に心地好く、私は半ば夢見心地で彼の話を聞いていた。
───その神社がわてらの『いつもの遊び場』やってんけど、大人たちからは神社より奥には行ったらあかんと、きつう言われとりました。
あんまり山深くに入られたら危のうてかなんということやったんやろうけど…その脅し文句が『お狐はんに連れてかれるで!』どした。
ところが、狐ちゅうんはその山では誰も見たことないんどす。狸や兎はおりましたが、狐はおらへん。大人が獲ったちゅう話も聞かへん。
そやのに、大人は皆『神社の向こうに行ったらあかんで、行ったらお狐はんに連れてかれるで』と揃って言う。
まあ、そのおかしな矛盾に気づいたんはもっと後のことどす。
当時は素直に親や祖父母の言うことを聞いて、神社より向こうには行かへんかった。
そやけどなあ…まあこっからは定番どす。ある時誰かが禁を破って神社より奥に行ってみようやと言い出した。
子どもなんてそんなもんや。訳も分からんと『あかん』言われたら反発したなる。好奇心も冒険心もある。
結局みんなで行ってみることになった。
山道を四半刻ほど歩いたやろか。
何もあらへん、おもんないなあ帰ろか、となった。
狐もおらへんやんか、おとはんもおかはんも嘘こいててんなあと、笑い合った時。
ケーーーーーーーン
と、何かの鳴き声が聞こえましてん。
わてらも大概、その山におるけものの鳴き声は知っとる。
けど、その鳴き声は初めて聞くもんやった。
雉子に似とるような気もするが、雉子とはちゃう。
そこで初めて、なんや気味悪うなって、早よう帰ろうとなった。
みんなして慌てて来た道を戻る。帰りは下りやし、一本道やさかい、すぐに神社まで戻れるはずやった。
───そやのに、なかなか神社が見えてこうへん。
いつの間にか、来た時よりも長いこと歩いてるのに、ちっとも着かへん。
運悪く、小雨が降りだした。
けど不思議なことに辺りは明るいまんま。あぁ、天気雨か。日照雨か。と、みんなで木立ちの間から覗く晴れた空を眺めとりました。
そしたら、突然辺りが霧に覆われてしもた。
何やなんやと騒いどるうちに霧は晴れた。
気づくと晴れた霧の向こうが少ぅし明るうなっとって、そこを花嫁行列が進みよった。
霧がかかる前は、そんなん見えへんかったんどす。
思えば、道らしい道のない山ん中を花嫁行列が通るいうんもけったいな話や。
何より、近々嫁入りがあるいうたら、わてら子どもかて知っとるはず。
冠婚葬祭は土地を挙げて皆でやるもんやさかい。
そやのに、わてらは誰一人として嫁入りがあると聞いとらへんかった。
…まあ、こういうことに気づいたんも後の話や。
そん時はただ、花嫁行列や、お嫁さんはどないな人やろ?どこに行かはるんやろと、興味津々で眺めとるだけやった。
またその嫁入り行列は、稀に見る豪勢さやった。
幼心に、どこぞのお姫(ひい)さんが、どこかお殿様のとこに輿入れしはるんやろかと思うたくらいや。
きらきら光る雨粒の向こうを、古式ゆかしい豪華な花嫁行列が進んでいくんは、そらもう幻想的やった。
魅入られたように、わてはその行列を見とりました。
いや…ほんまに魅入られてしもうたんやろな…
…あぁ堪忍、ちょっと独り言どす。
そうしてようやく、長い花嫁行列の殿(しんがり)が通り過ぎた刹那、また霧が広がって何も見えへんようになって。
再び霧が晴れた時には、もう花嫁行列はどこにもおらへんかった。
あんだけの長い行列が、もう見えへん。それに気づいた時、また聞こえましたんや。
ケーーーーン
という、奇妙な鳴き声が。
それが聞こえた瞬間、それまでどうもなかってんけど急に怖ぁなってもうて。
山に入ってから時間も結構経っとる。
神社の向こうに行って帰りも遅うなったなんて親に知れたら、どない大目玉喰らうか分からへん。
わてらはまた急いで道を戻りました。
せやけど、今度も神社に着かへんかったらどないしよう。
みんな、半べそかいとりました。わてもどす。まあ、ちっさい子どもの時分やから、そら、べそもかきますわ。
…どう進んだかは分からへん。ようさん歩いたような気もしてんけど、今度はちゃんと神社に戻ってこれました。
そっからは一目散に山を下りて、山から一番近い子の家に飛び込みましたわ。
その子の家には、ばあさまがいてはって、皆して泣きながらばあさまに山で見たことを話しました。
叱られるとか、そんなんそん時は考えられんと、とにかくあの不思議な鳴き声と日照雨、その中を進んでいった花嫁行列、帰ろうと思ってもなかなか元いた場所に帰られへんかったことを話しました。
ばあさまは、「そら狐の嫁入りや。あんたらは神隠しに遭いかけたんや」と言うて、お念仏を唱えはった。
───こんだけやったら、なんやけったいなもんに遇うたなあで済むんやけど。
その出来事から十年ほどしてからやろうか。
あん時狐の嫁入りを見た人間が、久しぶりに集まった。
あれからも、大きなるまでわてらは山で遊んでましてん。懲りん阿呆どもでっしゃろ?まあ、流石に神社より奥にはよう行かんかったけど。
そうやって遊んでてんけど、あの日見たものや経験したことについては、なぜか話に上ったことはあらへんかったんどす。
ほんで、わてがその時初めて、昔山ん中で狐の嫁入りを見たなあと口にしましてん。
けどな。皆は口々に「そんなん知らん」言いますねん。
山から下りて飛び込んだ、あのばあさまの家の子も「覚えてない」と。
挙げ句、山の中に神社なんてあらへん、とまで。
何でや。あんさんが最初に神社の向こう行こて言わはったやん、とわてらの大将やったあんちゃんに言うても、本人も首を捻る。
…結局、わてより他にはだぁれも覚えてへんかった。
あれは狐の嫁入りやと教えてくれたばあさまは、とうに亡くなってはったから、一緒にいてた子らが皆知らん言うたら、もうどないしようもない。
ほんでな…どない言うたらええのか分からへんのやけど。
わては、どうもこの時の記憶が段々と無くなっていっとるみたいなんどす。
例えば、夢って目覚めた瞬間は覚えとるけど、それを覚えとこ思ても、何でか消えていってまうでしょ?そんな、夢の記憶みたいな。
けど、夢と違います。ほんまに、わて覚えとったはずですねん。その日着とった着物の柄、草履の鼻緒の色、一緒におった子らの顔も名前も。何人おったかも。
───そうどす、あの時何人いてたかすら分からへん。あんだけ遊んだ神社の名前も分からへん。
物覚えはいい方やと自負しとるし、あんな、忘れたくても忘れられへん出来事やのに。
一緒に遊んどった友達のうち、わてしか覚えてへん。
わて独りが夢でも見たんやろか?狐に化かされたんやろか。
年々記憶が薄れていくのんとはちょっと違う気がしますねん。
こんなん言うたらおかしいやろうけど…誰かの意思を感じるんどす。
そんなんは、この出来事に関してだけやけど。
わてな、妙な予感がありますねん。
わての中から完全にこの記憶が無くなった時、今度こそわてはお狐はんに連れてかれるんちゃうかなあって。
せやから、どうかあんさんにも覚えとってほしいんどす。
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気づくと日照雨は止んでいた。ぬるくなった麦湯を飲み干して、私たちはお店を出た。
「あ、まだ続きがありましたわ。あかん、自分でこのことを忘れとったんが恐ろしい」
そう言うと彼は立ち止まって、懐から小さな御守りを取り出して見せた。
「これがあったから、わては神隠しに遭わんと戻ってこれたんやと思うとるんどす」
大きな彼の手のひらの上の、小さな古ぼけた御守り。
「今になって思うんどすけど・・・わての記憶が消えてっとるんは、このお守りの存在を忘れさせようとしてるんと違うやろか。
これは、あの日から常に肌身離さず持っとります。今なぜか忘れとったけど…
この御守りの事まで忘れてしもたら、多分おしまいなんちゃうかな。
忘れてしもたら、次は、ほんまに連れてかれると思うんどす」
そう言うと、枡屋さんは大事そうに御守りを懐へ戻した。
それからしばらくして、私は菖蒲さんの名代として枡屋さんに揚屋で会った。
気になって、この時の話と御守りの話を枡屋さんに確かめたが、忘れてしまったのか……彼はただ曖昧に笑うだけだった。
【日照雨の日(そばえのひ)・了】