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光の眩しさにようやく目が馴れて、私はゆっくりと瞼を上げた。
川の瀬音はさっきと変わらずに響いている。
もう一度ゆっくり瞬きをして、橋の向こうに焦点を合わせた瞬間、私は自分の気がふれたのかと思った。
この世界に戻って来てからの最初の数年、私は日々、死ぬか狂うかできたらいいのにとひそかに願っていた。
ここ二年ほどでようやくその願望は鳴りを潜めてきたというのに、それが今になってとうとう叶ったのかと、本気で思った。
見覚えのある、浅葱色の羽織。
川を渡る風が私の髪を揺らすのと全く同じタイミングで、浅葱色の羽織の裾と袂も揺れた。
──橋の向こうに立っているのは、土方さんだ。
私は叫びそうになるのを、すんでのところで堪えた。
見間違う筈はない。
腕組みをして、少し斜に構えたようなその姿勢。
微かにひそめられた眉。
でも、その下の眼差しは優しい。
その眼と、確かに視線が合わさった。
あの日戦場で、馬上の彼と目が合ったときのように。
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こんな時でも決して手放しの笑顔ではないところが、いかにも土方さんらしい。
そんな彼は、私の記憶の中でどうしても忘れることができない、あの最期の日の彼よりも、幾分若く見えた。
ああ、そうだ。
だって、あの羽織を纏っているということは、京都の新選組で活躍していた頃の彼ということだ。
近藤さんも存命で、沖田さんも元気で。
彼がこよなく愛した新選組が最盛期を迎えていた頃の、あの時の姿なんだ。
そうと分かって、私は微笑を浮かべた。
──もしもう一度会えたら、話したいことは沢山あった。
訊きたいことも数えきれないほどある。
謝りたいことも、詰(なじ)りたいことも。
駆け寄って、抱きついて、その腕に抱きしめられて、この再会を喜び合いたい。
なのに、私はそれができなかった。
正確には、そうしようと思わなかった。
だって、私はまざまざと知ってしまったから。
彼我の距離は、この川に架かる橋よりも遥かに遠くなっていて、もう決して埋まることはないのだということを。
──ゆく川の流れは絶えずして。
あかりさんが諳(そらん)じた『方丈記』の冒頭が、不意に鮮やかに耳に蘇る。
そう、川が絶え間無く流れるように、時間は私の上を静かに流れていたんだ。
その流れは、当たり前だけど決して誰にも止めることなどできなくて。
一緒に並んで歩いていた筈の私とあなたとの間は、流れる時によって今はもうはっきりと、彼岸と此岸とに隔てられてしまっている。
鼻の奥がツンと痛い。
…泣いちゃだめだ。
泣いたらあの人が見えなくなってしまう。
瞼にぐっと力をこめて、私は精一杯微笑んだ。
私と土方さんは、ただ見つめ合った。
それだけでいい。
それだけでよかった。
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私の人生っていったって、たかだか二十年ちょっと。
私はまだ若い。
土方さんと愛し合ったあの日々が、私の人生最後の恋だと決めつけることはないのかもしれない。
でも、私にとってはやっぱり紛うかたなき初めての恋愛で、私は土方さんと一緒に沢山の『生まれて初めて』を経験した。
親とも、友達とも、先生とも、他の誰とも築くことはできなかったであろう、あの五年近くの歳月。
それは、なんて素晴らしく、大切で、愛おしい日々だったんだろう。
ありがとう、土方さん。
愛してくれてありがとう。
守ってくれてありがとう。
沢山の喜びとときめきと幸せをありがとう。
悩んだことも、泣いたことも、苦しんだこともあった。
今も苦しいし、やっぱりまだ涙が出ることに悩んでしまうけれど。
でも、それでも、私はあなたに会えてよかった。
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土方さんの向こうに見える現代の街並み。
広がる夜空。
私たちの間を渡る風。
あなたが遺してくれた日々は、あなたがこの世界からいなくなってなお、残酷なほどの美しさをもって私を責めます。
それでも私は、行かなくてはいけないんですね。
私はそっと右手を顔の横に挙げた。
小さく振ってみる。
橋の向こうで、土方さんも右手を同じように振ってくれた。
──土方さんが手を振ってくれたことってあったかな。
私は共に過ごした時を懐かしく思い返してみる。
私がさよならと手を振ったことはあったけど、彼が振り返してくれたことはあったかな。
頷くか、微笑むかくらいしかなかったような気がする。
じゃあな、とか、またな、とか言ってくれたことはあったけど。
そんな土方さんが、今私に手を振ってくれている。
私は嬉しくなって、手をもっと挙げ、大きく振った。
土方さんも着物の袖が二の腕まで捲れ上がるくらい右手を挙げて、大きく振り返してくれる。
何度も、何度も。何度でも。
───ありがとう、土方さん。
手を振ってくれて、ありがとう。
何とか笑顔のままで手を振れてよかった。
笑顔で手を振った私が、あなたの最後の記憶でありますように。
いつかまた逢える日まで、どうか笑顔の私を覚えていてくださいね。
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気がついた時は、初夏の空は既に白みかけていた。
黎明の仄かな光と、西の空に瞬く一つか二つの星、そして下弦の月とが、弱々しくせめぎ合っていた。
私たち三人は、ここへ来た時と同じ間隔を空けて立っていた。
誰からともなく、お互い顔を見合わせる。
あかりさんも、翔太君も、涙を流していた。
それを見て初めて、自分も滂沱として落涙していることに気づく。
「……会えた?」
涙を拭うこともせず、あかりさんが尋ねた。
私も翔太君も、流れる涙をそのままに、ただ無言で頷いた。
「あれは……」
翔太君が誰にともなく呟く。
「亡くなった人たちの残留した思念と、遺された者たちの想いが、この日この場所でうまい具合に共振してできた映像を、あのカメラが写し出したのよ」
あかりさんが、今はもう誰もいない橋の向こうを眺めながらそう言う。
翔太君とあかりさんが、それぞれ会いたかった人とどんな再会をし、どう別れたのか、私は尋ねることはしなかった。
二人も、私に何も訊かなかった。
「ありがとう、翔太君。あかりさん」
そしてもう一度。
ありがとう。土方さん──。
【今ひとたび、あなたに・了】
