村田蔵六は元は良庵(又は亮庵)という名でしたが後に蔵六と改め、適塾入門時(弘化元年=1844、 22歳)は村田蔵六と記名しています。塾生は畳1畳分の場所を与えられ塾に住込み、塾長となると1部屋が与えられ、塾頭は外居と称して塾の外に住まい、其処から通うのが通例だったそうです。
村田蔵六は適塾に入門した後、途中でシーボルトの教えを受けに長崎へ行き、嘉永元年(1848)適塾に戻り塾頭となった。嘉永2年(1849)4月、塾を出て倉敷屋作右衛門の座敷(大阪市西区江戸堀2-6)に下宿したのは緒方洪庵の忠告に従ったのだそうです。
村田蔵六(大村益次郎)が適塾の塾頭時代に最初に住んでいた、倉敷屋作衛門の屋敷跡には石碑(画面左スクーターの前)があります。



しかし、倉敷屋での下宿は一月ほど止め、江戸堀から移ったのが善庵筋(現・徳井町)に借りた一軒家で、漏月庵と名付け数年住んでいたようです。
江戸堀(約一月居住)よりも此方の方が永く住んでいたのに、戦前には有ったらしい石碑も今は無く、案内板ひとつありません。
大村益次郎寓居(漏月庵)跡はこの付近(大阪市中央区徳井町1-2)であったと思われます。

大阪市中央区徳井町1-4、左右に走る黄色の中央線が描かれた道は天満八軒家から南に伸びる熊野街道です。

徳井町付近の熊野街道、画面奥が街道の起点、天満八軒家。横断歩道を越えた左手の木立は中大江公園。

この倉敷屋作衛門の屋敷と漏月庵については、「花神」(司馬遼太郎、新潮文庫上巻の93~ 95頁)に出ています。
村田蔵六は適塾に入門した後、途中でシーボルトの教えを受けに長崎へ行き、嘉永元年(1848)適塾に戻り塾頭となった。嘉永2年(1849)4月、塾を出て倉敷屋作右衛門の座敷(大阪市西区江戸堀2-6)に下宿したのは緒方洪庵の忠告に従ったのだそうです。
村田蔵六(大村益次郎)が適塾の塾頭時代に最初に住んでいた、倉敷屋作衛門の屋敷跡には石碑(画面左スクーターの前)があります。



しかし、倉敷屋での下宿は一月ほど止め、江戸堀から移ったのが善庵筋(現・徳井町)に借りた一軒家で、漏月庵と名付け数年住んでいたようです。
江戸堀(約一月居住)よりも此方の方が永く住んでいたのに、戦前には有ったらしい石碑も今は無く、案内板ひとつありません。
大村益次郎寓居(漏月庵)跡はこの付近(大阪市中央区徳井町1-2)であったと思われます。

大阪市中央区徳井町1-4、左右に走る黄色の中央線が描かれた道は天満八軒家から南に伸びる熊野街道です。

徳井町付近の熊野街道、画面奥が街道の起点、天満八軒家。横断歩道を越えた左手の木立は中大江公園。

この倉敷屋作衛門の屋敷と漏月庵については、「花神」(司馬遼太郎、新潮文庫上巻の93~ 95頁)に出ています。