「真に人間的な生活とは?それを可能にする社会的条件とは?」と終生に渡り追求したErich Fromm(1900-1980)。
 私自身がずっと問うてきたことも、ほぼ同じ。結局のところ、幸福追求に目を向けた人は誰も、そこに行き着いているのではないだろうか。

 子どもたちや若い人たちと接していると、恋愛に関することが彼らの脳裏を占めているスペースは小さくなさそうだ。(植物男子だとかいう言い方を耳にしたこともあったけれど、うーん、それは違うんではないか。興味の示し方が違うだけだと思うんだよね。)そしてそれは、幸福な自分の姿を思い描くことにも通じていて、悩んでいる姿や、うまくいかなくて怒ったり泣いたりしている姿も含めて、すごくいいなぁと思いながら、できるだけ静かに、そしてときどきは口出ししながら、見守っている。

 「恋愛」というものの面白さが、小説、漫画、映画等の格好の「材料」に成り下がってしまい、それはとうとう「恋愛」自体をもつまらないものにしてはいないか。

(念のためにいっておくと、私は小説も漫画も映画も大好きで、それらを侮蔑したくて言っているのではない。)

 一昔、いや“三昔”前でいうところの「ABC」を経験する/通過するステージに、まずなり、しまいには「女子会」のための「ネタ」になってしまった。「コイバナ」には、片想い、告白、失恋、浮気、デキ婚(授かり婚…)etc.の「ネタ」が必要なので流れに乗って/仕方なく(?)「恋愛」しているように見えて仕方ないのだ。

 あるいは、気持ちが動くことを「恋したから」と勘違いさせる要素が、漫画や映画、ケータイ小説には濃厚ともいえる。誰にでも「見て分かる」ことがこれらには重要なので、シチュエーションが簡潔に提示されており、現実世界でもそのシチュエーションに接触する機会が多かったり、可能性が多少なりある「シーン」が選び抜かれているからだ。

 そうして、「表現世界」が「現実」をひらりと追い越した結果、現実をリードしてしまっているといっていいだろう。

 そのようななかにあって、本当に人を愛して生きていきたいという現実の引き金になっているのが、一つは育児ではないか。

 子どもを産み育てるなかで、特に複数の子を育てていると、「複数の愛」の可能性に気付くのは自然の流れかもしれない。
 そしてまた一つには教育がある。

 何十人、何百人という子を教えるなかで、「転移」さえ経験し、あるいはこみ上げるような愛を経験し、“「複数の愛」のなかのひと”となっていくからだ。

 そう、愛とは、単に恋が成就したから生じるものではないのだ。

 フロムは『愛するということ』(THE ART OF LOVING,1956)のなかで、「自分自身の人生・幸福・成長・自由を肯定することは、自分の愛する能力、すなわち気づかい・尊敬・責任・理解(知)に根ざしている」(p96)という。

 こんな風にして、どういうことが本当に「愛するということ」なのかと考えていくと、法的な取り決めを前提に考える「1対1の愛」は、その一部に過ぎないかもしれないと思えてはこないか?

 ましてや、「セクシャルなつながりが継続的にあることを前提とした愛」など、ごく一部に過ぎないのではないか。

 
なんで、そんなことをとうとうと語るのかと訝る向きもあるだろうから、改めて言っておくと、私が愛について考えていることは、子どもをどう導いたらよいのかという問いと、まっすぐに繋がっている。

私は、子どもたちを「成績の良い子」「優秀といわれている大学にいく子」に育てることにまったく興味がない。それよりも、「わぁ、しあわせー」とか「毎日たのしいなぁ」とか感じ続けて生きて欲しいと思っている。自分の子どもだけでない。この世の中のすべての子どもがそうであるようにと祈るような思いで、そのために自分のできることを探している。

フロムは前掲書のなかで次のようにもいっている。「現代人は自分自身からも、仲間からも、自然からも疎外されている。現代人は商品と化し、自分の生命力をまるで投資のように感じている。」(p131)

子どもがもっといい成績をとれるように、“いい”学校に入れるように、“いい”会社で働けるように…。そうして、子どものことも商品として見ているのは、自身のことも商品として扱っているからだ。それは、かなしい。何より、つまらなそうだ。

さて、「愛」の話に戻ろう。
 
 「複数の愛」って存在するんだなー、というのは、自身が複数愛してみると、はっきりとわかることである。けれども、倫理観からそれを否定する。子どもや教え子に対する愛はともかく、それ以外、特にセクシャルなパートナーという意味では違うでしょ、と。

 私自身の感覚でいうと、いや、あらゆる対人関係において、「複数の愛」は成立するだろう…と本気で思っている。ただ、セクシャルな関係を複数と持つのは、とっても難しい話だ。とはいえ、「一生のうちにただ一人の人と」という厳密な一夫一婦を貫く人は恐らく少数派。つまり、同時期に、でなければいいんじゃないかなぁ…と多くの人が思っているのではないか。かつ、私は、同時期にでもいいでしょ!という人のことを否定しない。いろんな人がいて当然だと思うから。

 「複数の愛」が成立することに肯定的に生きる、そしてそれを“誠実な「関係性」志向”として選び取る、そういうスタイルは「ポリアモリー」と呼ばれている。

 ポリアモリーのことを語ろうとすると、どうしてもセクシャルなところに目がいきがちなのだが、そのへんのことはもう専門的な本が出ているので、そちらを参照していただきたい。(日本語で読めるものとして、デボラ・アナボール著.堀千恵子訳.『ポリアモリー恋愛革命』.河出書房新社.2004、深堀菊絵.『ポリアモリー複数の愛を生きる』.平凡社.2015)

 私のポリアモリーへの興味は、“誠実な「関係性」志向”の方に偏っている。
 どうしたら、愛ある関係性を持続させられるのか、ということ。法に基づく契約を結んだからといって、それはもれなくついてきたりしないのだ。もちろん、血縁しかりである。(みなさん、知ってるでしょ。)

 だから、「ポリアモリーでーす」って名乗っていなくても、これはポリアモリー的な、「持続可能な愛ある関係性」を目指したものではないかなぁとみえるものに興味がある。

 たとえば…

 社会学者・古市憲寿の活躍により知られるところとなってきた、(有)ゼントの社長・松島隆太郎は、「会社」というより「ファミリー」と呼ぶことを好み、そのメンバーも増やすつもりがないという。そして、「友だち」を大切にする。「ファミリー」や「友だち」の家族をも大切にしている。「血縁関係でない人びとの集まりが、家族よりも『家族』らしいということも起こりうる。松島の周りに集まった人びとは、新しい『家族』であるように見える。」(古市憲寿『僕たちの前途』)

 また、心理学者・河合隼雄が総編集した『講座心理療法第6巻 心理療法と人間関係』に収められた河合隼雄と画家・エッセイストの宮迫千鶴の対談にも興味深い話がある。
 宮迫は「現在は核家族という制度になっていますけど、もしかしたら核家族って失敗したシステムではないか。その失敗をこれから修復していくためにどういう人間観をもつべきなのか。」と問い、河合は「核家族が失敗したシステムというのは言い過ぎで、ものすごく難しい制度なんです。それをみんな昔よりも楽な制度だと思い込んでいる。愛し合う二人が一緒になって子どもを生んだらどんなに楽しいだろうと――こんなバカなことないんですけどね(笑)、出発点から大錯覚を起こしているのです。」と応じている。
 そして、宮迫が擬似家族といった関係のなかにいると話したことに対し、河合は「それは、うまくやればすごく意味をもつと思います。ただそのときに二つ問題があります。一つは、適当な距離をもっていたら危険が起こらない、だけど面白くない(笑)。うんと面白くなろう思ったらグッと距離が近づいてくる。距離が近づいてくると、私たちの言い方をするとキンシップ・リビドーというか、肉親のリビドーが動きだすわけです。同じ仲間だけど、急にむちゃくちゃ腹が立ってきたり、ワーッと攻撃したくなったりということが起こるのです。そういうことは、面白くするために起こっているのだという自覚がなかったら、それで分裂したり、だれかがポーンと辞めていったりする。」

 この話の面白さ、そんなに難しい話ではないので、一読で分からなかったら、もう一度読んで確認してほしいのですが、このことって、親子関係でも、特に子どもが「いっちょまえに」話すようになってくると、起こるのですよね。何歳か、とかそういうことではなく。そして、そこで「えーい、こうしたら面白くなるぞー!」っていう風に応じられたら、「親業」は楽しいばっかりではないか!と思うのです。その子も面白いだろうし。

 さて、こんな風に例を挙げたので、おそらくは、「愛」を語るっていっても、「好きな人と手をつないでランラン♪」的なものだけを指しているのではないということが、わかっていただけたかと思います。

 でも、手をつないで…もだいじなのよね。

 セクシャルなことも、話すのをタブーだと思っているわけではありません。家庭教育としての性教育の未熟さ・不実施はずっと気にかかっていることですし、LGBTとまとめられることで少しは認知があがった感のあるセクシャル・マイノリティにあたたかい(というよりはマジョリティだけをいいものだと思い込まない)社会にしていくことにも言及したいので。(ちなみに、ポリアモリーをセクマイとして考える見方もあり、それも正しいような気もします。そもそも、カテゴライズする必要のないことのようにも思うのだけど。)

 まあ、ぼちぼちいきましょう。

 次にこれらについて書き足すときには、ワークショップをご案内できるかと思います。
 単純にいうと、「多様性を認めるための」ワークショップです。自分にOKをだすということは、自分の個性を愛するということで、それは他者のそれを否定しない/受容することからはじまります。

 どうしてそんなことをしようと思ったか?
 ソーシャル・インクルージョンの実現のために、責任あるひとりでありたいからです。

 ソーシャル・インクルージョンについては、また、改めて書きますね。

 最後まで読んでくださって、ありがとう。