教育学を検索して たどり着いた方、独り言なんでスルーでお願いします。別に教育学論をぶちまけたいわけではないので、突っ込みとかも不要です。
教育学というものを、古典読解やら教育哲学やら子どもの発達やら、ということから学んでいくと、日本の教育を受けて大学にたどり着いた人は、はて?と思わず立ち止まって考えてしまうことでしょう。
社会教育はともかく、学校教育の現状が、子どもにとって必ずしもよいとは思えないカタチのまま、何十年も過ぎているからです。

そして、教育学部で学ぶ人のほとんどは、学校教員ないし教育関係職を目指しているはずですが、教員免許を取ろうとすると、そんなことをじっくり考えている間もなく、教員養成プログラムを淡々とこなさないと、卒業も危ない、就職も危ないということになりがちです。

というわけで、改善に向けられるエネルギーというのは、期待できません。

そうやって、気付いていても、「仕方ないでしょ~、子どもたちのためには問題もあるけど、課題のない世の中なんてないわけだしね」なんて、言い訳しながら、教育にあたることになります…。

首長が教育に直接関わってくるような政治にも問題がありますが、教育に関わる当事者たちが抜本的な教育改革を繰り返せなかったことにも大いに問題があります。特に、世界からは賞賛をうけ、評価の高かった、いわゆるゆとり教育をきちんと実施できなかったツケは高くついています。

教育施策に限りませんが、PDCA サイクルの甘さを平気で見過ごしてしまう体質を含め、反省すべきは反省して、舵を切り直す…ということが必要ですよね。

つい、ぐちぐち書きましたが、現場の先生のほとんどが、私生活を犠牲に仕事していること、命懸けの先生もいっぱいいることは、よく知っています。

小学校教育の理想を語り合った先生が働き盛りの若さで亡くなられて3年。歯がゆい思いでかわいい子どもたちのことを見てらっしゃるような気がしてなりません。

どんな子どもにも、輝くエネルギーがある。それを間近に日々見ているんだもの、とてつもないジレンマの中で毎日働いていらっしゃるのですよね。

子どもたちの環境がどうあるべきか知っている。だからこその悔しい思い。

それをなんとかしようと真剣になっていくと、教員集団からはうとまれる、かもしれない。面倒だからと、民間の、教育者へと転じていく先生もいるけど、学校にとってはそれこそ大きな損失ですよね。

こんなサイクルを繰り返した挙句、教育刷新をうたう政治に民衆がもっともとうなずいてしまっているのかもしれません。