私がとても信頼していた人 2人目は
年長時の保育園の担任の先生でした。

年少年中と女性の担任で、特に年中時の担任には、

「これができない、あれができない」と言われ続け、療育センター受診時には、医師に見せる用にA4の紙にあれもこれもできない項目が書かれ、

はっきり言って辟易しました。

年長時は初めての男性保育士でしたが、
受診前は普段の様子を簡単に伝えてもらうことにして、紙は断りました。

男性保育士の良いところは、しょっちゅう話しに来ないところです。

こうして担任と距離を置いた年長がスタートしました。




そこでコーディネーターと簡単な面談があり、7月 学校見学が行われました。

学校見学はサトシと旦那と行きました。
旦那の意見も聞きたかったから。私一人で決めるには重いと思ったから。

学校見学後も旦那は普通級希望で、どうしたものかと思い、担任に相談しました。

「先生はどっちがいいと思いますか?」

僕は支援級が良いと思っています。

理由は、、、、忘れました爆笑
多分困っていることを伝えられないから、手厚い環境が良い、みたいな感じだったと思います。

自分は支援級に、と思っているが旦那が普通級推しで…という話をする中で、
ふと、担任と旦那がタイマンで話すのはどうだろう…と思いました。

入園して二年、保育園からの話は常に母親の私が聞いてきて、療育センターも私一人付き添い、

旦那は全て、わたしからの又聞きになっていることに気付いたからです。



先生が土曜出勤する日、旦那に一人保育園に行ってもらいました。

休みに面倒くさいなぁと言う旦那を目で殺しむかっ

結果、良かったと思います。男同士、真っ向から向き合って話せて。

何をどう話したのか知りませんが、
帰ってきてしばらくして旦那も支援級に腹を括りました。

ただこの時点では、担任が支援級を推すのは、
面倒な子だと思っているんじゃない?知能が低いと思ってるんでしょ!?

という疑念はありました。

9月 支援級希望で書類を提出し抜け殻のような私と対象的に、担任の先生は忙しそうでした。

運動会の練習が始まったからです。

正直、ヒロシの幼稚園で鼓笛隊などを見てきた身としては、保育園の運動会は物足りなくて…

しかも当時コロナ禍で、縮小開催の運動会にそこまで…という思いもありました。

お迎えのときに、何回か
「お母さん!サトシくん、あとちょっとで跳び箱跳べるかも」

「あとちょっとの勇気なんだけどなぁ」

と話しかけられても、
ふーーーーーん、、、、

サトシの身体の不器用さを知って作業療法を受けてた最中でもあり、

そりゃ障害なんだから跳べないだろう

てなもんでした。



そして迎えた運動会当日。

跳び箱はとべませんでした。

私はやっぱりな、と思いました。

でも先生だけは、

「サトシ君に跳び箱を跳ばせたかった」
悔しそうに私に言いました。



その時自分を恥じました。

私が一番サトシに期待してなかったことに。

先生はサトシが伸びると信じてくれている、支援級を勧めたことに邪気なんてなかった!
そのことに気付きました。



卒園式の日、先生に手紙を渡しました。

私はシャイで(え…)素直に人に感情を表現できるタイプではないし、手紙を書いて渡すとか、小っ恥ずかしくて!

でもどうしても、跳び箱の話を伝えたかったので筆を取りました。(悪筆なのでPCで)



今でも思い出します。卒園式では今生の別ればりに先生に挨拶し、手紙を渡し、家でも文面を思い返しては泣きました。



翌週
(保育園は卒園式後も3/31まで大抵の卒園児が登園する)

サトシと元気に登園し、
先生と出くわした時の気まずさよ笑い泣き

ブログを見返していたら、三年前の9月に支援級の希望を出してました。


支援級に至るまでの経緯も。
なぐり書きのような当時の記録ですが、
当時の心情そのままに書いていて、ブログやってて良かったなぁと思う。


私がとても信頼してる人がいました。

一人目は作業療法のN先生。

療育センターで絵が描けない、ハサミを使えない等相談したら、月2回作業療法を受けることになりました。

初めましての日、N先生に、

サトシの発達が遅れてること、言葉が遅いこと、
保育園での生活が泣いてままならないこと、
ハサミを使ったり絵を描くことができない、

でもなぜなのか私にはよく分からない。
先生はサトシみたいな子見たことありますか?

と聞いたら、

「ありますよ。私は医師ではないので診断できません。でもたくさん見てきました。」と即答しました。

初対面で私はN先生にハートを持っていかれましたが、N先生の凄さはその洞察力でした。

工作をする時サトシが一瞬目を泳がせたのを見逃さず、

「保育園で工作の時間に泣いてませんか?一瞬とても不安そうな目をしました。」

と言った時、まさに同じ内容を担任の先生から聞いた直後だったため、震えました不安

先生とは2年間で約9ヶ月作業療法を受けました。

最後に、支援級に決めたことを話した時、どう思いますか?と聞いたら少し悩まれてから、

「それが良いと思います。サトシくんは、周りが思っているより本人の困り感が強いんです。なのでサポートが必要です。」

といつものようにサラッと言いました。



一年後、この言葉の意味を思い知りました。

懇談で、担任の先生から言われました。

入学してからずっと、サトシが
言いたいことも言えず、ヘルプが出せずポロポロ泣いていたことを。

内容は大したことじゃないです。
給食を減らしてほしいのに言えない、授業で聞きたいのに聞けない。とか

泣いて(気を引いて)訴える
というのは保育園からずっとやってたと思います。
加配つけてなかったから、かもしれません。

支援級に入れたことで収まるかと思ってたら、まだ続いてたんです。困ってると言えないんです。

先生間で「訴えてくるまで待つ」スタンスが決まり、途中先生とサトシの我慢比べみたいになり、
とうとう根負けしたサトシが、

「給食を減らしてほしい、」

と言ってそこから要望が口に出せるようになった、
全て事後報告で知りました泣き笑い

まぁ途中で言われても、学校内で起きてることを私がフォローするのも難しかったし、
成長のためにも、先生と信頼関係を築くためにも、それが良かったと思います。

これを聞いた時、N先生の「周りが思っているより本人の困り感が強い」の意味がはっきりと分かりました。

N先生と会ったのはそれが最後で、また会えると思っていたので簡単に別れてしまったんですが、

その後療育センターで見かけることがなくなりました。

今でもどこかで、私みたいな暗闇の中にいる人を救っていると信じてます。

先日、ヒロシ(長男)が11歳の誕生日を迎えました。

今年も11年前も金曜日でした。

サトシの記録用に数年ぶりに再会したブログだけど、もともとこのブログは

妊活そして子育て(赤ん坊)がメインでした。

妊活1年でできた待望の第一子ヒロシ。

はっきり言って出来が良い指差し(当社比)
賢い、素直、優しい、空気読む。
この子が兄で良かった!

さぞやモテかと思いきや、非モテのヲタク気質真顔

放課後は家でパソコンいじってる。
外が暗いのが怖いので塾は早めに行ってます。(真面目か)



そんで私。

ヒロシを産んだ時は主婦でしたが、社会復帰しフルタイムで働いてます。

社長に、
「私の人生をもう一度動かしたい(から雇って)」と珍発言し6年目。

コロナで仕事が激減したり、大変なことは何度もあった。泣きたいくらい腹立つ日もあったし、尿路結石になるくらいのストレスもあった。

血尿にもなったけど私は元気です真顔

最近、血尿(ストレス)回避のためヨガ始めました。




旦那。

ヒロシが生まれた頃はパワハラ上司に揉まれ、毎日22時過ぎ帰宅、土曜も夜遅くまで帰ってこない。

ヒロシが赤ちゃんの頃は、私とヒロシだけの生活で孤独でした。

その後、パワハラ上司は告発され左遷からの退職。

この11年で、会社がホワイトになり
電話機を投げつける、膝蹴りされる、などがなくなりました凝視

38度の熱でも、インフルでも会社行ってたけど、コロナ禍のお陰で、熱がある時は休むようになりました。

そこまでして続けてきた今の仕事ですが、
明日から子会社出向して全然別の仕事を始めます真顔

そんなサトシ以外の我が家の近況でした!