『エス』映画です。

誰でも本質的に持っている。
潜在的に潜む『S』を引き出されていく経過を観察する実験がテーマだった。
不特定の参加者を募集し、刑務所の『看守役』と『囚人役』に分け双方の心理状態の変化を観察する。
看守役の人たちは、実験と認識していても、自然と優越感を持ち、理不尽に囚人役に暴行をふるい、その行為に快感を持つようになる。
囚人役は、実験と楽観的だったが、理不尽な暴行を受けるたび、抵抗して更に暴行がエスカレートする繰り返しに絶望するものと、看守役に暴行で抵抗するものと、実験は現実と化し悲惨な結末となる。


然し、悲しいことに実際に世の中にはこんな状態が蔓延している。

ニュースとならないところ、日常的な場面の方が多い。

私もそうだろうか。
多分、違うと思いたい。
確かに本質的に持っていること否定はしない。
然し、自分以外を理不尽に攻撃する時、感じるであろう攻撃する痛みに私は耐えられない。

なぜ、自己理由だけで他人、もしくは家族を攻撃できるのだろう。痛みかんじないかな。強いな。

人の痛みには無関心かな?

こんなこともあると思う。
痛ましいサイクル。
攻撃的な人は、その人も攻撃される環境にいた経験を持っている場合。

私は攻撃と人格の否定の中で育った。
だから、攻撃的になれない。痛みに耐えられないから。
引き換えに鬱病となった。
悪いことばかりではない。
何故か鬱病と知らなくても、人に恵まれている。
クサイと言われそうなこと、違和感なく通じる人が多い。

映画の実験とは意味が違うかも知れないけど。

サイクルの認識のない人には認識して欲しい。
悲惨が続かないように。

認識からはじまる、サイクルを止める勇気。
幸せの方向はたくさんある。
既成概念の他にも。
『世間では』は、みんなに当てはまらない。

あくまで、私の考え。