Bell East
『魔法のバンに乗ってファイナル』

オレタルよーこちん隣に一緒♪
いつもの様に当然ポップロックバージョンの私。
聴き手としてのパフォーマンス使う時、孤立してるってよく思う。
だから喋れなくなる。勿論、体も中身も投げ尽すスタイルってのもある。
でも、よーこちん、かーこちゃん、なおちゃんだと唾飛ばすくらい喋れる。孤立感がない。

私はミュージシャンじゃない、聴き手分の一だとずっと思ってた。
何故他の同じ聴き手達とコミュニケーションとれないか。変人だから?

私に染み付いてるのか、捨てられないのか。
ほんの少しだけ舞台に立っていた時期。
今何が出来る訳もないけど。
好きだったんだなって。
楽器や唄うを使っていなかったけど。
全て見せる側と見る側を繋ぐことだった。
私はそれが好きだった。
色々だったけど、こだわり続けたのは伝わる空気。
はねかえりで、今!伝わってない!って感じる。
これではどうだ!
伝わってる!
一瞬の見えないやりとりが集まって、ひとつの何かが見える。
とてもわかりにくい表現になってしまうけど。

私にも伝えたいことが今でもあって、ライヴに身を置いていたと、今頃自覚。

舞台、お祭り、人形劇。
私はただ脚本家や振り付け師のマリオネットではなく、一瞬の一体感が好きだったんだ。

今、大好きなミュージシャンのライヴに行く。受取り方は勿論自由。
爆発するパワーであれ、ふわふわと入る想いであれ、伝えたいことがあるのは同じ。
共感する聴き手がいればいい。それも各々。

私は違う。
伝わったら、伝わったよとその場で返す。
その時だけ、同じライヴはないと思うから。
しみじみじわじわはクールダウンして薄れることは無い。
でも、一瞬一度きり逃したくない。
ライヴは相乗効果で濃くなると思う。
奏で手や唄い手がなげかけるだけでいいライヴは成り立たない。
私が感じたこと、恥ずかしげもなく素直に表す。
化石となっていたはずのパフォーマー。
聴き手みんなに、通りすがりの人達みんなに、私は伝えようとしていたこと。
聴こえるでしょう?伝わった?私と一緒に楽しもうよ。おいでよ♪踊ろうよ♪唄おうよ♪手をたたこうよ♪笑おうよ♪泣こうよ♪ここは何でもアリだよ♪さぁおいでよ♪
私は私で伝えたかったんだなぁって。
みんな自由に聴けばいいじゃん。
そう、その通り。
でも、ひとつきりしか無いライヴ、もっともっと濃くすること出来る。

『ライヴ会場にいる』人達の中身にある、
『ライヴを創る』人達を引っ張り出したいの。

多分、ライヴ会場や路上でわたしが臆することなく話している相手は、コンタクト回数や日常の距離関係なく、私から伝えたいこと伝わったかなぁに、すんなり応えてくれる人なのだと思う。

奏で手唄い手さんだから伝わる、とは限らない、聴き手だから伝わらない何てこともない。
私はいつも真ん中で、せっせと紡ぐ、その時だけの繋がり糸。
見える人にしかきっと見えない。
聴き手の私、『聴いて受け取ってくれてありがとう』『いいライヴをありがとう、大好きです!応援してます!』

こんなプツンッを感じとると(勝手に)失望したりする。分の一のパフォーマンスしか出来てないんだな。
でも、したたかに姿勢は変えない。自分から発信してるから。
まんべんなく伝えるって
そんな簡単じゃないし、表現の仕方違うの当たり前。
私は私の伝達者の役割、自分で見つけて行く。
伝えたいこと、私にもあるから。
それが私を支えてくれるから。
私の輪郭確かめる方法沢山持っていない。
輪郭見えなくなると
すぐ迷子になるし、隙間にはさまって動けなくなる。
嫌だ。