このblogを通して、和歌山県の太地町歴史資料館の方と知り合うことができ、コメント欄にもよく書いてくださる。

 太地町は昔から鯨漁で知られていたが、明治以降アメリカやカナダに沢山の移民を送り出していた町だとは初めて知った。

 そこから移民した人の中には画家になった石垣栄太郎(妻は文筆家の石垣綾子)もいて、太地町に記念館があるそうだ。二人は戦時中は日系人の収容所ではなかったようで、戦後は日本に帰っている。

 

 この和歌山の方から、今日のタイトルの相賀安太郎氏の名前を知った。彼は東京出身でハワイに移民に出たが、後にハワイで新聞社を作った人だそうだ。昭和23年に『鉄柵生活』という本を出して、戦時中の収容所生活を書いてあるようだ。ハワイの収容所の後、大陸の収容所(ニューメキシコ州)に移されたようだ(アマゾンの紹介文による)。(この『鉄柵生活』は平成18年に復刻されている。)

 『鉄柵』というのは、加川文一らがツールレークの収容所内で出した文芸雑誌の題でもある。実際には、収容所の外周は鉄製の柵と言うよりは、鉄条網の囲いだと想像しているが、『鉄柵』誌は他の収容所でも読まれたらしいので、ジャーナリストの相賀氏は、興味深く手にしたのではないかと想像する。

 加川文一が渡米した頃には、サンフランシスコなどの日本人の多いところでは、日本語の新聞が出ていて、文芸欄に読者が投稿できたようだ。加川文一の名前は、厳しい労働の傍ら詩や短歌や俳句、川柳などを投稿している文学青年の間で知られるようになっていたのだろう。

 加川文一らにとっても、また戦後に渡米した古田和子たちにとっても、日本語の中に故郷があり、日本語こそが故郷だったのだろう。

 加川は望郷という言葉は用いていない、母という言葉が詩に出てこないように。出さないからこそ、深い望郷を感じる。アメリカでの生活が長くなり、根無し草のように思うこともあった彼らに、日本語はときに杖となったのだろう。