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どうも、どんべえです!
今回は一夫一婦制についてです。
一夫一婦制
一生異性の2個体の組合せのみを認める社会、もしくは法律上の制度。
日本に一夫一婦の考えがもたらされたのは江戸時代と言われている。
キリスト教では貞操観念を重要視し、婚姻の形態は一夫一婦が基本。
宣教師たちはその考えを日本に根付かせようとしたが、すぐには広まらなかった。
妻の他に妾を囲うことは、上流武士社会や富裕な町人層では普通に行われていた。
明治時代に初代文部大臣を務めた森有礼(もり ありのり)は「妻妾論」で一夫一婦制や男女同権を説いた。
そして広瀬常(ひろせ つね)との結婚は日本における最初の契約結婚となった。
「今のような婚姻制度は、日本の歴史から見たらまだ割と最近始まった事なんだな」
契約の内容は
「それぞれが妻、夫であること」
「破棄しない限り互いに敬い愛すこと」
「共有物については双方の同意なしに貸借売買しないこと」
の3条から成り、福沢諭吉が証人となった。
常(つね)はこの時薄いグレーのドレス姿で結婚式に臨んだそうだ。
これが日本のウエディングドレス第1号といわれてる。
しかし結婚11年目に常の素行上の理由で双方納得のうえ離婚した。
噂によると常の不倫が原因のようだ。
「日本初の一夫一妻制の妻は、シタ妻だった…!」
刑法では明治13年に、戸籍法では明治19年に「妾」は姿を消した。
そして明治31年に民法によって一夫一婦制が確立。
これに尽力したのが森有礼と福沢諭吉だ。
諭吉は、明治維新になって欧米諸国の女性解放思想をいち早く日本に紹介した。
「人倫の大本は夫婦なり」として一夫多妻や妾をもつことを非難し、女性にも自由を与えなければならぬとし、女も男も同じ人間であるため、同様の教育を受ける権利があると主張した。
「福沢諭吉、スゲー!!」
文久元年(1861年)、中津藩士江戸定府の土岐太郎八の次女・錦と結婚し、四男五女の9人の子どもをもうけた。
松山棟庵によると、諭吉は結婚前にも後にも妻以外の婦人に一度も接したことがなかったという。
関連する話は、こちらにも書いてます。
貞操を守り、その重要性を人々に伝えて法律をも変えた福沢諭吉。
彼の肖像画をいつも財布に入れて持ち歩く事、俺は誇りに思っていた。
諭吉先生、また会う日まで…
婚外子含めて子供の数50人とも100人とも言われてる人の肖像画なんて嫌だなぁ。
キャッシュレスを進めたいのか異次元の少子化対策か、不倫文化を広めたいのか知らんけどさー
一夫一婦制が導入された後も80歳過ぎても、いろんな人と作りまくってたんだってよ~
諭吉先生いわく、一夫多妻なんてケダモノの文化!!