記憶に残っている学校の先生は?

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中学1年の時の先生で

黒板の前に並ばされて

順番にビンタした先生が居ました

その時は怖かったし痛かったけど

卒業してから思うと

その先生が一番自分たちのことを

思っていてくれたと思えました

 

今ではビンタは絶対ダメですが

そういう先生が一番記憶に残ります

優しく接した先生よりも・・・・

 

でもその先生は

臨海学校で生徒がおぼれたのを助けようとして

ご自分もおぼれてお亡くなりになりました

新聞記事読んだ時はものすごいショックでした

 

そしてその時の副担任の女性の先生

つい最近まで年賀状交換していました

突然年賀状が途絶えたので

もしかしたらお亡くなりになっているかも

英語の先生で

全く英語がダメだった私を一生懸命に教えてくれました

感謝でしたが

そんなダメだったのに英語を使って仕事するようになるとは

人生分からないものです

 

昔歩いた中山道の記事書いています

情報が古いのでお気を付けください

 

前回書き忘れました

上尾―鴻巣の歩数は31464歩でした

 

中山道歩き旅の5日目は鴻巣から行田まで歩きます

 

11月14日

 

今日は荒川土手を歩き、熊谷に向かう道

前回終了時は夜になってしまったので明るい鴻巣駅付近を見るのは初めて

快晴です

駅前広場には「ひな人形と花のまち鴻巣」の看板と花時計が有りました

鴻巣の地名の元となったコウノトリの像も有ります

 

前回暗くなってしまって行けなかった途中に有った勝願寺に行ってみます

勝願寺の門前に出ました

正式な名前は檀林勝願寺

 

折しも今日11月14日は関東3大十夜に数えられているという

「十夜法要」が行われる当日

境内には屋台が沢山出て準備しています

 

十夜法要とは浄土宗の大切な行事の念仏会

本来は旧暦の10月5日~15日まで行われる法要です

大きな山門

 

この山門に祀られている仁王様は三峯神社(埼玉県秩父市)

から贈られたものだそうです

本堂には幡幕が張りめぐらされ、法要の準備が整っています

この勝願寺は徳川家康が帰依していて徳川家の家紋「三つ葉葵」の

使用を許可され、更に寺領30石が与えられています

 

本堂の幡幕や提灯にも三つ葉葵が染めだされていましたが、

屋根瓦にも三つ葉葵が使われていました

参拝を終わって

中山道に戻ります

歩道には鴻巣市のシンボルのコウノトリのプレートが埋め込まれていました

 

この鴻巣には家康が建てた鴻巣御殿が有ったのだそう

鷹狩りに来て泊まる宿所です

 

家康の鷹狩りは単なる遊びのためでは無く、

自分の体力の維持と、最も大きな目的は

諸国の情報収集だったといわれています

 

家康、秀忠、家光の3代で使用され以後は使われずに

明暦の大火の時解体して江戸に運ばれたのだそうです

 

その後には東照宮が有ったようですが現在は焼失して

何もなくなっているとのことです

 

右手奥に法要寺が有ります

この寺は加賀前田家が参勤交代で勝願寺に泊まろうとしたところ断られ、

困っているときに宿を提供したということで、

前田家の定宿として使われたのだそうです

そのお礼として、前田家の家紋「梅鉢紋」を拝領したのだそうで、

ここの屋根瓦にも梅鉢紋が使われていました

 

この先に、大きな蔵を持った古い家が有りました

この建物は明治12年ごろの建築だそうで、当代から3代前の方の建築だそうです

屋号は「穀屋田沼」

 

名前の通りこの店は穀物問屋です

 

田沼家は元館林家の藩士で、西南の役に出陣し負傷して帰され、

その際恩給として45円支給されそれを元手にこの店を開業したのだそうです

 

お店の内部

上り框が付いています

金庫が古いです

田沼家の間取り図

間口が狭く奥行きが長い典型的な昔の商家の作りになっています

 

内部拝見させていただきありがとうございました

 

田沼家の斜め前が鴻神社

田沼家はこの鴻神社と法要寺の総代を務めているそうです

この神社は鴻巣に有った三つの神社(雷電社、熊野社、氷川社)

を合祀して鴻神社となったのだそう

 

この地域には雷電社が有ったようです

町名もそのものズバリ雷電

相撲の雷電為衛門とは関係が無いそうです