下記、HPに掲載している記事の原文です。
(HPに掲載している小灘会長のページの文章は、「若い人にわかりやすく伝える」という趣旨のもと、承諾をいただいて修正を施してあります。)
『「回天」はどう出撃したか~小灘利春・元「回天」隊長の回想』 文・片岡紀明
特攻隊の位置
人間には、死者の霊を思う、死者の霊を慰めるという自然の意志がある。そういう本能に近いものを、筆者(片岡)ももっている。わたしは、戦争で亡くなった人々のことを聞くと、心で黙祷をささげる。
テーマは、人間魚雷「回天」についてである。
靖国神社には、国のために命を捧げた二百四十六万六千三百余の人々の霊が祀られている。かつての兵器なども屋外に展示されている。
人間魚雷「回天」も屋外に展示されている時期があった。
それを見ていた若いママが「これで戦争に行ったのだって。涙が出るわね」と子供に聞かせているのが耳にはいった。それが人間本然の感情というものであろう。死者に対する思いというものは、そういう簡明なものだろう。
わたしたち一般国民は、戦後しばらくたつまで、人間魚雷「回天」という兵器が活躍していたということを知らなかった。しかも実戦に使用された一型から、四型、十型まで、短い期間にいろいろの改良型も生まれていたようであった。
“回天”とは、敗勢を挽回し勝利に一変させる、という意味をもち、人間魚雷「回天」とは、“TNT炸薬一・五五トンを頭部に装填した魚雷に人間が乗って敵艦に体当たりする”、文字通りの人間魚雷なのであった。
わたしは、前から、特攻隊隊員の行為をもっと称揚すべきである、という意見をもってきている。
かれらはわたしたちを守るべく自分の身をなげうってくれた人々である。あるいはわれわれの身代わりになってくれた人々であると、いってよいかもしれない。だから、わたしたちはもっとかれらの行為に感謝し、かれらをもっと称揚すべき位置に置くべきであろうというのが、簡単ながらその理由である。
これは、やたらその死をほめそやすとか、捨て鉢の自暴自棄をほめそやすとか、人間無視のやり方をほめそやすとか、無差別テロをほめそやすとか、あるいは侵略とか領土拡張とか軍国とかの再興を謳歌するということとは、まったくちがうものであることをまずお断りしておく。
日本を勝利にみちびくことを使命とした兵器「回天」。それに搭乗して征った人々の心の中はどうであったか。足を投げ出して座るくらいの狭い操縦席で、かれらは何を考えたか。
人命軽視の特攻兵器、という紋切り型の空想的平和主義をたよりにすると、“鉄の棺に閉じ込められて死んでゆかねばならない若い青春”という感傷的なキャッチコピーのような言葉が筆者の心にもすぐ思い浮かぶのであるが、しかし、ドラマでない「回天」特攻隊員の心情はもっと別のところにあったはずではないか。
悲壮、それは当然である。だが、戦後のマスコミや文化人のかれらに対する評価は、あまりに低いところにありすぎた。
戦争指導者から悲惨な命令を押しつけられていやいや死んでいった、ということばかりいうと、では、あの人たちはわれわれを守ってくれなかったの? あの人たちの行為、価値はどこにあるの?ということになってしまうし、たった一つしかない生命を投げ出したかれらの真意は、“みんなでおれたちのことを悲しんでくれよ″というだけのものになってしまう。そんなことでは、かれらは浮かばれまい。そういう思いが常にしていた。
ほんとうはどうだったのか。わたしは当時の「回天」特攻隊員を通し、かれらの心情の真実を追い、もっと正しい位置にかれらを置きたいと思ってきた。
元回天隊長の思い
鎌倉市の小灘利春氏は、いま「回天」の全貌を知るただ一人の人といってよい。
小灘さんは、海軍兵学校七二期を昭和十八年九月に卒業した。重巡「足柄」の勤務を経て、昭和十九年九月一日、山口県・大津島の「回天」訓練基地へ配属され中尉、昭和二十年四月、「八丈島・回天隊」隊長の命をうけ、八月十五日の終戦まで「第二回天隊」をひきい、日本防衛の任務についた。
その小灘さんのもとに、アメリカのニュージャージー海軍博物館、通称“ハッケンサック海軍博物館”から、《保管している「回天」のハッチを開ける》という通知がとどいたのは、終戦から五十六年という時間をへだてた去年、二〇〇一年という年の五月であった。
小灘さんには、かつて自分の生命を人間魚雷「回天」に託して、日本の退勢を一気に挽回するのだという熱い思いがあった。
*
小灘さんは語る――
《大戦の終期、日本海軍は、人間魚雷の採用にふみ切り、各種型式の「回天」をあいついで開発し、製作をすすめました。
戦い終わって、米国は、実戦に使用された「回天・一型」ばかりでなく、全「回天」の厳重な処分命令を出し、米国に運んだもの以外、すべての「回天」は爆破、または海中投棄され、日本の地上から「回天」は姿を消したのです。
いま日本に一基完全な姿で保管されているもの(注・遊就館内に今年七月から展示)は、ハワイの陸軍倉庫にあった「回天・一型・改一」を、昭和五十四年(一九七九年)に靖国神社に運んで修復し、奉納したものなのです》
《「回天」の実物が、米国に三種類、三基、現存しているということは、しばらく前からわかっていました。私には、その型式が何なのかという疑問、その解明、自分の乗った兵器にふたたび手を触れたいという思いなどがありました》
小灘さんは、会員をつのり、元「回天」特攻隊の同志たちと全員七名で、八月、米国へ旅立った。
その旅先、ニュージャージー州ハッケンサックの海軍博物館には「回天・二型」、シアトルのキーポート海軍潜水艦博物館には「回天・一型・改一」、ハワイ・ボーフィン潜水艦博物館には「回天・四型」が、展示されていた。
魚雷マンたちの訪米
五十六年後の回天特攻隊員たちの、ハッケンサック海軍博物館における「回天」との対面のことが、地元の新聞「レコード」紙にのった。それよりの摘記――。
《スイサイド・トーピードーメン
(自殺魚雷マン)七名の訪米。
主筆リチャード・カウエン記
いまや白髪になり面影も去ったが、かつての戦士、七名の日本人が、「回天」魚雷の上に登ったとき、かれらの老眼鏡の後ろには、いまだに特攻兵士の鋼のようなきびしい視線があった。
五十六年前、この男たちは、大戦末期の米国海軍の侵攻をくい止めるため、人間魚雷「回天」に志願し、「回天」必死の出撃の任務についていた。
これは死に物狂いの日本の最後のカであった。出撃の機会が来たら、かれらは「回天」を操縦して、米国軍艦に体当たりしていたはずの人々である。
しかし、一九四五年夏、日本は無条件降伏し、かれらは生命を永らえることとなったのである。
「われわれは、平和を守るために戦わねばならない、といわれた」と、小灘利春氏は、くすんだ緑色に塗られた鋼鉄の艇体を見つめながら、回想した。
「そこには、ただ一つの誇りがあっただけだ。怖れはなかった。自分の家族と国のために戦っているのだということだけがあった」
小灘氏は、空の“神風特攻”に相当する“海中特攻”に志願した約一千五百名の海軍軍人のなかの一人であった。
「回天」が現れたのは一九四四年であり、米軍が太平洋のほとんど全域を制圧し、勝利にむかっているころのことだった。「回天」は、海面直下を素早く走った。米兵にとって、海面を切ってくる潜望鏡を見ることは、自分たちの艦にむかってくる敵機同様、恐怖だったろう。
博物館重役の一人、ジャック・カーボン氏はいう。「“回天”のあたえた恐怖というものを想像してごらんなさい。もう空ではなくて海の下でカミカゼを見つけなければならないのです」
七十八歳の宇井弥一氏が「回天隊」に志願したとき、かれは大学の学生だった。「わたしは、日本のために自分を捧げることを目指し、そのために死ねれば幸いだと感じていた。わたしは、日本が負けることを知っていた、それでも国家のために死にたいと思った」
ここにいる七人の男たちは、日本降伏の日にも訓練にはげんでいたのだ》
元「回天」隊長、語る
小灘さんは語る――
《「回天」の訓練部隊は、昭和十九年(一九四四)九月一日に、徳山市の大津島に創設され、九月五日からその操縦訓練がはじまりました。
「大津島」は、徳山港桟橋から巡航船が出ていて、四十分くらいで到着します。ここは、もともと九三式魚雷の試験発射場があったところで、その設備を利用して、「回天」の訓練部隊が創設されたのです。
その後、訓練基地は十一月に光、そのあと平生、大神と増設され、人員も急速に増えて最終的には一,三七五名に達しました。大津島での最初の士官は三十四名でした》
*
「回天」と一口にいうが、ここには搭乗者、整備員、搭載潜水艦の乗員、殉職者など、発進にいたる多数の関係者の存在があったことを銘記しておかなくてはならない。
そのなかの最初期の士官、三十四名の方々である。なかに訓練中に殉難した人々がいる。特攻戦死した人々がいる。
黒木博司(機51・殉職)、樋口孝(兵70・殉職)、上別府宣紀(兵70・菊水隊)、仁科関夫(兵71・菊水隊)、加賀谷武(兵71・金剛隊)、帖佐裕(兵71・第三回天隊・生)、久住宏(兵72・金剛隊)、河合不死男(兵72・第一回天隊)、石川誠三(兵72・金剛隊)、川久保輝夫(兵72・金剛隊)、吉本健太郎(兵72・金剛隊)、福島誠二(兵72・多々良隊)、土井秀夫(兵72・多々良隊)、柿崎実(兵72・天武隊)、小灘利春(兵72・第二回天隊・生)、福田斉(機53・菊水隊)、村上克巴(機53・菊水隊)、都所静世(機53・金剛隊)、豊住和寿(機53・金剛隊)、川崎順二(機53・千早隊)、宇都宮秀一(兵予3・菊水隊)、今西太一(兵予3・菊水隊)、近藤和彦(兵予3・菊水隊)、佐藤章(兵予3・菊水隊)、渡辺幸三(兵予3・菊水隊)、原敦郎(兵予3・金剛隊)、工藤義彦(兵予3・金剛隊)、前田肇(兵予3・天武隊)、池淵信夫(兵予3・轟隊)、小林好久(兵予3・殉職)、藤田克己(兵予3・多聞隊・生)、永見博之(兵予3・第五回天隊・生)、上杉正俊(兵予3・転属)、松岡俊吉(兵予3・転属)。(注・兵は兵学校、機は機関学校、兵予は兵科予備士官。数字は期。生は生還)
人間魚雷・回天とは
小灘さんは語る――
《「回天」とは、“天運挽回”、傾いた形勢をもとにもどす、という意味で、文字通り“人間魚雷”そのものです。そして、日本独特の「九三式酸素魚雷」に手を加え、人が乗って操縦し、敵艦に体当たりしようというものです。
「九三式魚雷」は、空気から酸素だけを九九・五%の純度で取り出し二二五気圧に圧縮して魚雷に詰め、燃料の灯油を燃焼させて走ります。すると、これで三・五倍の能力になるのです。外国の魚雷は速力四六ノット距離は五千メートルほどですが、「九三式」は五〇ノットで二万メートル走ります。速力を三六ノットに落とせば、四万メートルも走りつづけます。しかも「九三式魚雷」は、燃焼で発生する水蒸気と炭酸ガスが海水に溶けるので雷跡が見えないという利点もあるのです》
《こういう高性能魚雷「九三式魚雷」を、特攻兵器に活用しようとした「回天」は、これにさらに一本分の気蓄器を加えて直径一メートルの胴体でつつみ、全長を一四・七五メートルにおさめた大型魚雷です。
重量八・三トン。炸薬量は、一・五五トン。普通の魚雷の五本分にあたります。
水中最大速力は三〇ノット。航走距離二万三〇〇〇メートル。巡航速力の一二ノットでは三時間半、四十二海里(注・約七万八〇〇〇メートル)を走りつづけることができます。これに乗って敵艦に体当たりするわけです》
《搭乗するのは、乗員一名で、ハッチは、上と下にありますが、開閉するハンドルは内側にだけついており、外側にはありません。搭乗員は、乗艇してから自分でハッチを閉めます》
そう聞いたとき、筆者につよい疑問がわいた。
歪曲された番組
その疑問とは、テレビ番組で、“「回天」のハッチは外から閉める。よって閉められたら泣いても叫んでも開けてもらえない”というように強調しているのを見たことがあったからだ。
これについて、小灘さんは、
《それは、まったく事実に反する説明なのです。「回天」の、上下二か所のハッチのハンドルは内側にだけついていて外側にはないのです。いま片岡さんのいわれたような番組は、私の知る限りでは昭和五十九年(一九八四)からのように思います。
「回天」事故でこのハッチから乗組員が脱出したケースを私は何度か知っています。私がテレビ関係者に説明したのは平成十年のことです》という。
「回天」のなかへ善玉人間が閉じ込められる、というような悲劇性強調番組やドラマは数多い。このハッチの件も、番組担当者は知っていたが、まっとうでは番組は面白くない、と考えてわざと真相を曲げて制作したのかもしれない。
爽やかな予備士官
《「回天」には――》と、小灘さんはつづける。
《潜望鏡(注・「回天」では“特眼鏡”と称するが、小灘さんはわかりやすくこういった)があって、長さ一メートルで、上下・旋回・倍率変換ができ、浮上したとき、これを通して周囲や敵艦の態勢を観測します》
《自動操縦で、針路は三六〇度。速力・深度は一定の範囲内で自由に変えられます》
《重要な作業は、敵艦の態勢を観測して、突撃針路を正確・敏速に決定すること。また、浮力の調整もつねに気を配らねばならない課題です。走るにつれて、酸素がどんどん消費して艇が軽くなりますから、その分、計算して海水をタンクに注入してゆき、運動性能が悪くならないようにします》
《操縦中は、頭と手を動かして、けっこう忙しく、訓練中でも一歩誤れば死にいたります。そういう緊張の連続です。
私も徳山湾の北口で、海底に突き刺さったことがあります。気泡を放出して位置を知らせながら救助を待ったのですが、いろいろな事故がありました。
それで、「艇内でどれだけ長く生存できるか」ということのために、人体実験テストが必要になったことがあります。そのとき私が立ち上がろうとするより前に、「私がやります」と名乗りをあげたのは、兵科三期予備士官の池淵信夫少尉でした。
これは電灯が一つついているだけの狭い閉め切った艇内に座って、可能なかぎり何時間いられるかという危険な耐久テストです。
池淵少尉は、普通の態度でそれを申し出ました。それは気負ったところのない、昂ぶったところのない、爽やかさを感じさせるほどの言い方でした。かれはそのテストをやりとげましたが、スケールの大きい、立派な人でした。私はかれを、その日常性から尊敬しておりました。
かれは、昭和二十年六月四日、「轟隊」として伊号第36潜水艦に乗って光基地を出撃し、マリアナ東方海域で敵船団に突入、散華したのですが、「回天」隊員にはこういう忘れ得ぬ人々ばかりがいました》
《隊員は、訓練により自分なりの体験や工夫も得て、「回天」を手足のように自由自在に操っている感じがしてくるのです》
“「回天」を手足のように”、筆者は思わずほっとした。これはいうなれば、自分の車になれたときの感覚であろう。自分の乗る飛行機を“愛機”というのと同じ感覚であろう。
愛機「回天」で戦う
“「回天」を手足のように”、だからこそあの洋上で敵艦とわたりあえるのではないか。われわれはこれまで「回天」について、押し込められて死にひたむきに直進するだけだと誤って考えていた。
そうではない、かれらは「回天」という自分がいちばんなじんだ武器を使って敵をやっつけるのだ。その考えがあって「回天」に乗り込むのだ。
*
《その「回天」の使い方ですが、はじめは大型潜水艦の後甲板に四基、のちには前部甲板にも二基、合計六基、搭戦しました。
輸送潜水艦では五基、中型潜水艦では二基を搭載して、出撃しました。
搭乗員は、いよいよ発進する前に、潜水艦のなかから、交通筒を通って「回天」に乗艇します》
《敵に接近してゆく速力は、泊地攻撃では一二ノット(注・時速約二十二・二キロ)、洋上の航行艦襲撃のときは二〇ノット(注・時速約三十七キロ)を使います。
敵艦の五〇〇メートル手前で浮上し、観測して針路を修正し、全速三〇ノットで突撃。三〇秒後に命中するのが基本です。
魚雷とおなじ信管で自動的に爆発しますが、さらに搭乗員は突入する際は、電気信管のスイッチに手をかけ、命中と同時に間違いなく発火するように操作しておりました。
もしも命中しなければ、反転して浮上、観測してふたたび突撃します》
航空機一に三なら対抗防御できよう、また凄い防御砲火によって撃墜もできよう。しかし海中の「回天」は身を避ける以外、防ぐ手段はない。だから効果的なのであろう。
《のちには陸上の前進基地からも「回天」を出せるようにしたのです。
「第一・回天隊」は、三月十六日、沖縄に進出中、敵潜にやられ一二七名全員が輸送艦とともに戦死という不運の結果になりました。この隊の隊長は、河合不死男という私と兵学校同期の、なかなか好もしい男でした。
そして、わたしたちの「第二・回天隊」が八丈島に進出したわけです》
特攻の命令と歓喜
小灘さんは、語る――
《二十年四月、私は大津島の分隊長として隊員の訓練教育をしておりましたが、すでにこのときまで「回天隊」の出撃はつぎつぎにおこなわれ、最初期の士官のなかで残っているのは、私一人だけになっていました。自分も、早く自分の「回天」で敵に立ち向かいたい。そういう、やむにやまれぬすごい焦慮の気持ちで連日おりました。
四月はじめ、灯火管制で暗い大津島の士官室に、光突撃隊・大津島分遣隊指揮官の板倉光馬少佐とわたしの二人だけが、向かいあって座っていたことがあります。そこへ一通の電報を回覧板にはさんで、電信兵が持ってきたのです。
一読した板倉少佐は
「横鎮(横須賀鎮守府)長官から、回天一隊を八丈島に至急派遣するようにいって来た。君、行け」
と、即座にいわれました。
このとき、私に歓喜の衝撃が背骨の下端から頭のてっぺんまで、ズンと一気に突き上げました。これは後にも先にも経験がないほどの、強烈な喜びでした。
出撃すれば、そのあと僅かな日数で自分の生命は確実に断ち切られる。それは覚悟の上です。しかし当時の戦局下、日本の人々の存亡の危機を救おうという若人の果たす使命、意義は大きい。その喜びこそ「回天部隊」に共通する自然な感情でした》
歓喜? 強烈な喜び? ほんとうだろうか。
《それはほんとうです》 小灘さんは、強烈な喜びの深層を語る――
《私たちは機械のように命令に従っただけのロボットではありません。自殺志願者でもない。戦士ではあっても生命を軽々しく考える異常者ではないのです。
しかし、大戦の後半、昭和十九年六月のマリアナ沖海戦(注・サイパンの攻防)で日本海軍の機動部隊が敗北して以来、質・量ともに隔絶した戦力の差が目の前に大きく広がってきました。日本の将来は、このままでは絶望的となりました。
自分たちの持てるカで敵を防ぐ。それしか思いませんでした。“散華の美学”とか“靖国神社に祀られよう”などという言葉で、自ら死を選び、出撃する動機にはなり得ません。
「どうやったら、日本は戦えるのか」
そのとき海軍の一角に「人間魚雷・回天」が出現しました。われわれは、これだ!と、思いました。自分の死よりも先に、眼前の敵に打ち勝つことを考えました。
この兵器で敵と戦える!一人一艇をもって、千人の大艦を倒せる。そして、その搭乗員になることを知ったのです。喜び、それ以上のものはなかった。仲間と喜び、夜の更けるのも忘れて語りあいました》
《これは(上段掲載の絵)大津島着任後、私が描いたものです。終戦後紛失したので忘れないうちにすぐに描き直したものです。稚拙かもしれないが、当時の私の気持ちは、いまも変わりません。何回振り返ってみても変わりません》
日本、戦場となる
当時中学生だった筆者が思い出すに、そのころの日本は、もう戦場といってよかった。
*
昭和二十年二月、東京から一四〇〇キロの硫黄島に米軍上陸。三月、同島守備隊玉砕。三月、B29三二五機による東京大空襲。十万といわれる人々が焼死。四月一日、沖縄に米軍上陸――ここも玉砕する。
「桜花」(注・ロケット噴射をもつ特攻兵器)を発想した戦士がわが家に来たことがあって、目の前にその青写真を見せて「これでなくては日本は勝てない」といったことがある。その青写真を見せられたとき、日本の戦局はここまで来ているのか、と中学生のわたしも思った。
わたしは、青空で巨大なB29に体当たりする小さい日本機を目撃した。その直前、下で見ていた大人の一人は「ぶつかってやれ」といった。それは口惜しまぎれの叫びであったし、じつは筆者もそう思った。わが物顔のB29にはそれしか手はない、と誰もが思った。そして、その日本機はそのとおり、B29に体当たりした。だが、相手はすぐには落ちず白煙を引いて視界から消えて行った。
人々はこの情景に絶句し、無力感、散華した日本機搭乗員のはらった生命の大きさ、だが何とかあのでかい相手に勝ちたいと思い、同時にあの巨大な奴らには体当たり以外の手はないのだ、ということも思い知らされた。
当時の生活、食うものがない。おもな食料は大豆、サツマイモ、カボチャ。ずだ袋のような衣服。
東京は何回もの大空襲で、一望、見渡すかぎり焦土となり、赤茶けたトタンと瓦礫の堆積となっていた。そのなかに、わたしたちは食料を得るため、菜園をつくっていた。
赤茶けた都大路をリヤカーに乗せて焼け残った家財道具などを運ぶ男はカーキ色の国民服にゲートルを巻き、女はモンペ姿で、みんな防空頭巾を肩から吊るしていた。ただそれだけの、それしかない、そういう時代だった。
水戸とか日立とかが艦砲射撃を受けたことも知っている。わたしの知人で当時中学生で、その砲撃を経験したものがいた。かれによれば、友人が倒れた、しっかりしろ、と抱き上げた右手がその友人の脇腹にあいた傷口にずぶりと入ったそうである。
「大和」をどうして出さないのか、とみな思っていたが、このときの日本に大型軍艦を動かす燃料がなかったのである。瀬戸内海に軍艦たちを集めて偽装させ本土決戦の防衛に備えたその燃料をかき集めて「大和」出撃に間にあわせたと、戦後になって知った。そういう時代だった。
*
そのとき、小灘さんたちに与えられていたのが「回天」なのであった。
「回天隊」は明るく出撃した
《そして、「回天」の若人たちは、もはや特攻以外に戦う手段がないことを知っていました。「回天」が、国と国民を守るには最も効果的であると考え、みずから献身したのです》
《これは、六十年も前の戦争の末期に、日本人のなかで自然発生した現象です。衛星による空中からの敵探索をし無人ロケットがピンポイント攻撃できる、そんな二〇〇二年の戦争ではないのです。もっとプリミティブな、人間同士の戦いの場だったのです》
《「どうせだめなら、特攻などせず、降伏するまで待てばよかった」と、いう意見をいう人がいます。しかし、戦士とは最善を尽くして戦うべきものです。われわれは最善を尽くして敵と戦うための軍人でした。しかも「回天」という武器がある以上、それを駆使して戦うのが務めです。それ以外は考えません。戦争の終結は政治の問題です》
*
小灘さんは、《“回天隊”のみんなは明るかったですね。真っ暗な時代に光明を見いだしたのです。これが隊員を明るくさせたものでしょう》という。
《そのころ、米軍統合参謀本部は日本本土への侵攻として西からの島伝いを決定し、昭和二十年十一月一日に九州南部に上陸するという「オリンピック作戦」を米国大統領が承認しています》
《目の前に、危殆に瀕した家族や両親の生があるのです。私たちに選択の余裕などなかったのです》
《敵の無差別爆撃が日本各地に行われ、自分たちの同胞が無抵抗で大量に殺されていって、つぎは自分の親だといわれたときに、全力で敵に立ち向かおうとはしませんか。
そのとき、自分には有効な武器がある。有効な武器「回天」がある。この「回天」は、一艇もって一艦に勝つことができる。発進し敵艦に体当たりする瞬間、「勝った」と思うでしょう。そのために自分はいくのです。
親兄弟を守り、山河を守るには、若者の血気がなくてはできませんでした。自分のできる最大のことに向かったとき、若者の顔は輝きます。自分一人で手足のごとく操縦できる一艇をもって、親や山河をつぶそうとする千倍の敵を倒す。その精神の高揚が明るさという発露になったのだろうと思います》
若人たちはなぜ特攻に
小灘さんは語る――
《さきの大戦で、七〇〇〇人におよぶ若人たちが、特攻隊員となって散華しました。
しかし、いまでは特攻に参加したかれらに、共感どころか理解もできない日本人が多くなっています。事実を歪曲し、正しく伝えないマスコミがあります。
一部特攻隊員のなかには、特攻を強制された、騙されたというものまで現れてきました。
すると、まるでそうすることが手柄でもあるかのように、特攻戦没者を非難、軽蔑する一般の傾向が出てきたのです》
《しかし、平和時でも危険にある人を見た瞬間、助けたいととっさに人は思います。他より侵すものがあれば守るのは自然の命ずる行為です。
第一次大戦でドイツは八十隻ほどのツェッペリン飛行船を建造し、フランス、イギリスを空襲しました。そのパリ爆撃のとき、フランス軍はモラーヌ・ソルウニエ単葉戦闘機ただ一機が迎撃しました。この操縦士は武器を使い果たすと、この飛行船めがけて体当たりし、ツェッペリンは大爆発をおこして火だるまとなって墜落しました。これ以外にもフランス軍は何隻かを体当たりで撃墜したと聞いています。これは一つの特攻的攻撃です。
また、太平洋戦争の比島戦線で、重巡「足柄」が、ミンドロ島の敵橋頭堡を攻撃するため進撃して、米軍陣地が危機に陥ったとき、一機の双胴のP38が四丁の一三ミリ機銃を撃ちつづけながら、「足柄」の左舷に突っ込んできました。敵機は舷側を突き抜け、艦は大火災となりました。これは明らかに自分の身を挺して味方を救おうという特攻的攻撃です》
《しかし、特攻の場合は、その場の衝動で行うものではなく、これによって家族や故郷が救えるのだという考えた末の納得と、自分の命をもっとも効果的に活用するための長い訓練の期間があります。そこは違うところです》
《一般人を道連れにしたり一般人を巻き込んだりするテロというものは、あれは特攻ではありません、。ニューヨークの貿易センタービルへの旅客機使用の自爆テロなど、あれなどは特攻ではありません。日本の特攻と同列に断じられるものではないのです》
国、敗る、しかし…
ここに、フランス文化相だったアンドレ・マルローの言葉がある。
「日本は太平洋戦争に敗れはしたが、そのかわりに何ものにもかえ難いものを得た。それは、世界のどんな国も真似のできない特別攻撃隊である。スターリン主義者たちにせよ、ナチ党員にせよ、けっきょくは権力を手に入れるための行動だった。日本の特別攻撃隊たちは、ファナチックだったろうか。断じて違う。かれらには、権勢欲とか名誉欲など、かけらもなかった。祖国を憂える尊い情熱があるだけだった。代償をもとめない純粋な行為、そこには真の偉大さがあり、逆上と紙一重のファナチズムとは根本的に異質である。人間は、いつでも、偉大さへの志向を失ってはならない」(会報「特攻」第九号。元リヨン大学客員教授・長塚隆二氏との会話より)
いま正しい「回天」像を残しておかねば、という意志で小灘さんは、「全国回天会」を組織し、その会長として戦後の年月を過ごしてきた。
「日本人は親兄弟、国家が危ういときは特攻攻撃をおこなってでも守ろうとします。しかし、一方で、四季豊かな国を愛し山河を愛する平和的な国民です。そして、忍耐づよく、力強い国民でもあります。それが戦後の日本の繁栄を築き、日本の良さを世界に印象づけたと思うのです」
と元回天特攻隊長である小灘さんはいい、下のようにつけ加えた。
「特攻出撃した戦友たちについてお話ししたいことはまだまだありますが、特攻隊として生命の大事さを何よりも感じてきた自分として、いまの若い人々が“切れた”とかいって他人をすぐに殺傷する。これは絶対にやめてもらいたい。他人の貴重な生命をうばうとともに、自分の貴重な一生も台なしにして失ってしまうことです。二人の生命を同時に失うことです。これから先の何十年の有為の人生を衝動的に無以下にしてしまう。あまりにももったいないことです」