さて、少し前にリブログした記事の中の、浄土真宗で「きく」に四通りあると言われる中の二番目の「聞き流す」に関連して出た蓮如上人のお言葉について補足します。


「一つことを聞きて、いつも珍らしく初めたるように信の上にはあるべきなり。ただ珍らしきことを聞きたく思うなり。一つことを幾度聴聞申すとも、珍らしく、はじめたるようにあるべきなり」
(御一代記聞書)
信を獲た人は、同じ話を、いつも初めて聞いたように聞けるのである。人は珍しい話、変わった話を聞きたがるが、何度、同じことを聴聞しても、初事と聞かなければならない”


  浄土門仏教からは、釈迦一代の教えは「南無阿弥陀仏」の大功徳一つを説かれたもの、という事になります。それは限りなき無上甚深の功徳ですから、百千万劫かけても説き尽くすことはできません。

大無量寿経には、「もし広説せば、百千万劫にも極め尽くすこと能わじ。」と説かれます。

蓮如上人が「無上甚深の功徳利益の広大なること、更にその極まりなきものなり」(御文章5帖目13通)と仰る通り、南無阿弥陀仏の名号の六字は、どれだけ説いても大海の一滴にもならない、無尽の法蔵なのですね。

 

後生の一大事は、弥陀からこの名号を丸貰いした一念で解決します。人間に生まれた究極の目的は、平生の一念に完成するのですね。


 ですが、弥陀より賜った無限の功徳は、どれ程聞いても、聞き終わる事もなければ、聞き飽きる事もない、と言われます。無尽蔵の教えを頂くから、何度聴聞を重ねても、皆、初事になるのですね。

 

この底無しの宝を頂いていなければ、仏法が底無しの教法だとは知る由もない、と言われます。ですから、氷山の一角も分かっていないのに、「もう分かった」と早合点したり、「またあの話か」と不足を言って、珍しい話を求めてしまうのですね。自戒したいところです。

 

中には「自分は救われたから、もう聞く必要は無い」と言う人さえあるようですが、無尽の教えを頂いていない告白という事になるでしょう。その誤りを、蓮如上人は警告されているのですね。


違った話を聞くのではありません。同じ話を初事と聞け、と上人は慈誨されています。真剣に聞法すると、何度も聞いた同じ話が、「よく知らされた」「そういう事であったのか」と驚く事があります。話が変わったのではありません。聞く人の信仰が進んだから、同じ話が、初めて聞いたように感じられるのでしょう。

 それは丁度、電車が走ると、外の風景が変わっていくようなものに例えられます。速度が増す程、景色の変化も加速します。止まっていると、景色は変わりません。
信仰が進む程、同じ話が初事と聞けるから、そういう真剣な聞き方を上人は勧めておられるのですね。

 

どれだけ聞いても飽きない、無尽の法蔵・南無阿弥陀仏を頂いて、人生究極の目的を果たすまで、真剣な聞法を心がけたいですね。