前回の記事の内容の補足です。


どうせ死ぬのに、なぜ生きる。こう問われて最も多い返答は、「人生の目的は分からない」というものではないでしょうか。


「分からないから、考えないようにしている」と開き直る人もいますが、順境で悩まずに済んでいるだけでしょう。不況で仕事を失ったり、災害で全財産を失ったり、重病や大事故等で不自由な体になったら、どんな人も、生きる意味を考えずにはいられなくなります。

そういう状況になった時に、人生の目的は「死ぬまで分からない」とか「ない」などという主張では、何の救いにもならないでしょう。

「目的は人それぞれ」という意見も多くあります。確かに、大学合格や結婚、出世、マイホーム、種々の記録等の目標に向かい、達成した時は充実感を味わえます。ですが、その喜びは、どれだけ続くでしょう。若くして起業に成功して使い切れない大金を手にした直後、末期癌を宣告され、後悔で世を去った青年の話を聞いた事があります。今日あって明日ないかもしれない幸福である相対の幸福では、「この為に生まれてきた」という生命の歓喜は、味わえません。


人生の目的ほど大切な問題はないのに、様々な哲学・思想・文学等も答えられないでいます。なぜ、誰も生きる目的が分からないのでしょうか。それは、人生の目的を分からなくさせる、暗い心のせいなのです。この闇の心を、仏教では「無明の闇」と言います。現代の言葉で分かりやすく「死後が暗い心の病」と言う事もできるでしょう。

この闇は、肉体の生まれるより、はるか過去からずっと続いてきた、迷いの根元であり、過去にも紹介した真宗宗歌(浄土真宗のお勤めの際に歌われる事が多い歌で、真宗の人なら大抵は知っているでしょう。)には「永久の闇」と形容されています。この根深い黒闇の為に、全ての人は生きる意味が分からず、苦から苦への綱渡りをしている、という事になります。


苦悩の根元である「無明の闇(死後が暗い心の病)」を晴らして下さるのが、阿弥陀仏の本願なのですね。弥陀の不可思議の願力によって、この闇が破られたら、どうなるか。

真宗宗歌では

「永久のやみよりすくわれし 身の幸何にくらぶべき」

と歌われているように、どんな幸福とも比較にならない最高無上、絶対の幸福に生かされる事になります。同時に、「人間に生まれたのは、これ一つの為であった」と、人生の目的がハッキリするのですね。