前回記事を補足して、「十劫安心」の異安心について改めて説明します。

「一劫」は四億三千二百万年の事。
十劫の昔に、阿弥陀仏が、全ての人をいつ死んでも浄土往生間違いない身に救い摂る力のある「南無阿弥陀仏」の名号を完成された、というように経典に説かれます。

「十劫安心」とは、弥陀が名号を成就なされたその時既に、我々は助かってしまっている。それを知らないだけだから、今更求める事も聞き歩く事もいらぬと言う人達の信心です。

この異安心は、薬(名号)のでき上がった事を、病気の治った(助かった)事と早合点した間違いですね。
 薬ができていても、飲まねば病気は治らない。こんな事が分からないところから起きる異安心です。

十劫安心の誤りを善知識方のお言葉で説明します。

まず、「今更求める事も聞き歩く必要もない」という十劫安心は、
「たとい大千世界に みてらん火をもすぎゆきて
 仏の御名をきくひとは
 ながく不退にかなうなり」(浄土和讃)
と、真剣な聞法を勧めておられる親鸞聖人のお言葉に反します。

次に、十劫安心の人は、既に助かっている事に気づいたのが「信心」だと言い、弥陀の救いは「いつとはなし」に気づかされると言うようです。
しかし、最近も説明したように、
「真実の信楽を按ずるに、信楽に一念有り。『一念』とは、これ信楽開発の時尅の極促を顕す」(教行信証)
「たちどころに他力摂生の旨趣を受得し、飽くまで凡夫直入の真心を決定しましましけり」(御伝鈔)
と、親鸞聖人も覚如上人も、弥陀の救いは一念でハッキリすると明示されます。「いつとはなし」のぼんやりした信心は、断じて他力真実の信心ではないのですね。

更に、「全ての人は既に助かってしまっているのだから、『この世で助かった』という事はない」と彼らは言います。
しかし、
「愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて、本願に帰す」(教行信証)
「われ已に本願の名号を持念す、往生の業すでに成弁することをよろこぶ」(執持鈔)
「他力の信心ということをば今既に獲たり、乃至今こそ明かに知られたり」(御文章)
と親鸞聖人も覚如上人も蓮如上人も現在明らかに救われたと仰います。 

この世で助かったという事がなければ、親鸞聖人の教えを、「平生業成」・「現生不退」・「不体失往生」等と言われるはずがないのですね。