前回記事を補足します。

阿弥陀仏は、現代の言葉で分かり易く言えば、「どんな人も、必ず絶対の幸福に助ける」という本願を建立され、その誓いを果たす為に、南無阿弥陀仏の名号を十劫(一劫は四億三千二百万年)という果てしない昔に成就完成して下された、と説かれます。

この名号を親鸞聖人は、「苦しみの海を明るく楽しく、極楽浄土まで渡す大船」に例えられます。

そして、光明とは、その大船に乗せて下される弥陀のお力です。
 この光明に「遍照の光明」と「摂取の光明」の二つあるのですね。

遍照の光明とは、全ての人を差別なく、弥陀の大船に乗せるまで照育して下さるお力です。
仏とも法とも知らなかった私達が、仏縁を結び、後生が気になり、真剣に聞かずにおれなくなってくるのは、偏に弥陀の遍照の光明の働きによるのですね。

しかし、遍照の光明だけでは、弥陀の大船に乗じたとは言えません。
 逃げ回っている私達を、弥陀は追いかけ追い詰めて、遂に摂取の光明によって一念で大船に乗せて下されるのですね。

ですが現今の浄土真宗では、遍照の光明と摂取の光明の区別を説かず、「弥陀の光明に、既に生かされている」等という「十劫安心」の説教者が大変多く、聞く者も「もう救われているのだ」等と錯覚し、一向に真剣に求めようとしないと言われます。これでは真宗の衰退は当然です。

過去に何度か説明したように、「十劫安心」とは、弥陀が名号を成就されたその時既に、我々は助かってしまっている。それを知らないだけだから、今更求める事も聞き歩く事もいらぬと言う者達の信心です。

この異安心は、薬(名号)のでき上がったのを、病気の治った(助かった)事と早合点した間違いです。
いくら南無阿弥陀仏の大船が完成し、遍照の光明に照らされていても、摂取の光明にあって乗船しなければ、浄土往生はできないのです。

蓮如上人は、
「仏法は聴聞に極まる」(御一代記聞書)
“仏法は聞く一つで救われる”
と教えられます。

二つの光明を分かつ聞即信の一念まで、真剣な聴聞を重ねたいですね。