さて、「時尅の一念」について、摩訶不思議なこの一念を、親鸞聖人は、「生きる目的」と「生きる手段」を峻別する、分水嶺だと喝破されていると言えます。これに関連して、何度か紹介した次のお言葉があります。

「真・仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」(教行信証)
〝真と仮との違いを知らないから、人間に生まれて良かった、という生命の歓喜がないのだ〟

「真」とは「人生究極の目的」、「仮」とは、生きがいや趣味・目標等の「人生の手段」の事です。
「目的」と「手段」の水際のつかぬのを、「真・仮を知らざる」と言い、生命の大歓喜のないのを「如来広大の恩徳を迷失す」と言われます。

「真」=人生究極の目的と「仮」=生きる手段の区別は、苦しみの根元である「無明の闇=後生暗い心」が「死」んで、「真仮を知る心=後生明るい心」の「生」まれる「一念」の時でなければ分からない、と言われます。

例えば、夢で火災にあい、必死で逃げる。ビルの屋上に追いつめられて、もう駄目だと覚悟した時、汗びっしょりで目が覚めます。なんだ夢だったのかと知るのは夢が覚めた時です。
夢の中では、夢が夢と分かりません。ましてや、覚めた世界など知る由もない。夢が覚めた時、夢と現実が同時に明らかになるのです。

「夢」を「夢」と知るのは、夢覚めた時であるように、「仮」を「仮」と知らされるのは、「真」が明らかに知らされた時です。真と仮が明らかになるのは同時なのですね。
如来広大の恩徳に生かされ、生命の大歓喜を得た一念に、「人身受け難し、今すでに受く」(華厳経)の「人生究極の目的」が知らされます。同時に、生きがいや趣味、目標等は、この「目的」を果たす「手段」であった、とハッキリするのですね。

臓器移植までして、なぜ生きるのか。苦しくともなぜ自殺してはならないのか。人命は地球より重いと言われるのはなぜか。数多い人生論が曖昧模糊で終わるのは、生きる「目的」と「手段」が峻別できないだけなのです。
真仮の人生を一念で截つ「弥陀の誓願」は、まさに利剣と言うにふさわしいでしょう。

この一念で、真(なぜ生きる=人生究極の目的)と仮(どう生きる=生きる手段)を判然と知らされた聖人は、如来広大の恩徳に感泣しつつ、あの逞しい生涯を貫かれたのですね。