さて、古来から自己を知る「鏡」とされる「他人鏡」「自分鏡」「法鏡」の三枚の鏡のうち、他人鏡は都合で曲がり、自分鏡は欲目で曲がりました。

「真実の私」を映してくれる真実の鏡は、三枚目の「法鏡」なのですね。

お釈迦様は、
「仏教は法鏡なり。汝らに法鏡を授ける」
と遺言なされ、私達に、真実の姿を映す鏡を与えて下さいました。

「法」とは、真実であり、三世十方を貫くもの。
三世とは、過去・現在・未来で「いつでも」、十方とは、東西南北上下四唯で「どこでも」という事です。
時代や場所に左右されず、いつでもどこでも変わらないものだけを、法と言います。

仏法を聞くとは、法鏡に近づく事ですから、仏法を聞けば、今まで気づかなかった自己が見えてきます。
もちろん、鏡から離れていては分かりません。
肉体を映す鏡でも、遠目には
「まんざらでもない」
と自惚れていますが、近づくにつれて
「ここにシワがある。こんなところにアザがある。随分白髪が増えた」
等と、その実態に嘆きます。
同様に、法鏡に近づく程に
「こんなわが身であったのか」
と、思いも寄らぬ自己の姿に驚くのですね。

では、法鏡に映し出された、真実の自己とは、いかなる姿でしょう。

仏教では、
「人間の真実の相は煩悩具足である」
と教えられます。

煩悩とは、私達を煩わせ悩ませるもので、百八つあるとされます。具足は塊、という事ですから、煩悩具足とは、「煩悩の塊」という事です。

法律や道徳レベルなら、善人・悪人がありますが、仏眼からご覧になると、人間は皆、極悪人となります。
レントゲンの前では、美人も、醜女も、富める者も、貧しい者も、老若男女の違いなく、皆、骨の連鎖であるように、法鏡に照らし出されると、煩悩より他にない自己と知らされます。

そして、煩悩具足の私達は、真実の自己を法鏡に照らし抜かれた一念に、煩悩具足の私をそのまま救って下さる阿弥陀仏の本願に遇わせて頂くのですね。