普段、「死は怖くない」と思っていても、実際、死に臨めば、演技する余裕も意地もありません。
今まで頼りにしてきた金や財産、名誉や地位、家族、恋人、友人、そして、この肉体とさえも、別れねばなりません。

何度か紹介したように、蓮如上人は、
「まことに死せんときは、予てたのみおきつる妻子も財宝も、わが身には一つも相添うことあるべからず。されば死出の山路のすえ・三塗の大河をば、唯一人こそ行きなんずれ」
(御文章)
"病にかかれば妻子が介抱してくれよう。財産さえあれば、衣食住の心配は要らぬだろうと、日頃、あて力にしている妻子や財宝も、いざ死ぬときには何ひとつ頼りになるものはない。一切の装飾は剥ぎ取られ、独り行く死出の旅路は丸裸、一体、どこへゆくのだろうか"
と仰います。

いよいよ死なねばならぬとなったら、どうか。
「予てたのみおきつる妻子も財宝も」とは、「今まで頼りにし、あて力にしてきた全てのもの」という事です。

私達は何かを頼りにし、あて力にしなければ、生きてはいけません。夫は妻を、妻は夫をあて力にし、親は子供を、子供は親を頼りにしています。恋人や友人を心の支えにしている人もあります。
また、金や財産をあて力にしています。地位や名誉を力にしている人もあるでしょう。

これら一切、私達があて力にして生きているもの全ては、死に直面した時、
「わが身には一つも相添うことあるべからず」。

積み上げた学問も思想も哲学も何一つ、明かりにはなりません。死の巌頭に立たされたときには、一切役に立たない。何もかもが力にならぬ事に、初めて愕然とするのでしょう。

「されば死出の山路のすえ・三塗の大河をば、唯一人こそ行きなんずれ」

咲き誇った花も必ず散る時が来る。全ての光を失って、暗い後生へと入っていかなければなりません。

だが、そんな自覚もなく、漫然と日々、生きているのが私達です。
全ての人にとって、これ以上の大事はありませんから、これを「後生の一大事」と言われます。
この後生の一大事の解決一つを教えられたのが仏教なのですね。

それにはまず、死を真面目に見つめる必要があります。
死を見つめる事は、いたずらに沈む事ではありません。生の瞬間を何よりも明るくする第一歩なのですね。