人間死んだらどうなるかに関連して、経典には、
「汝ら、過去の因を知らんと欲すれば、現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲すれば、現在の因を見よ」(因果経)
"過去に、どんな種蒔きをしてきたかを知りたければ、現在の結果を見なさい。未来、どんな結果が現れるかを知りたければ、現在の種蒔きを見なさい。分かるであろう"
というお言葉があります。

これは、現在を見れば過去も未来も、全て分かる、悠久の過去と永遠の未来を包含しているのが現在であるからだと、教えられたものです。
 この教えによれば、一人一人の生まれた結果が異なるのは、各人各様に生まれる前の、各人各様、異なった原因があったからに違いありません。
厳粛な因果の道理に従って、私達の過去世の行為が現在世の私達の境界を生み出した事になるのです。

当然、「過去世」があるように、私達には「未来世」がある事になります。もし「未来世」がないとすれば、因果の道理に例外を認めねばならなくなるでしょう。

原因が変われば結果が変わるのが、因果の道理です。

原因が変わっても結果は同じだという主張は、三世十方を貫く「因果の道理」を知らない妄言という事になるでしょう。
現在世の行為の結果が、たとえ現在世で現れなくても、必ず「未来世」に現れますから、「三世因果」は三世十方を貫く真理であると教えられるのです。

この仏教の「三世因果」の道理が理解されると、「現在」の大切さが知らされます。

「過去世」とは、とりつめれば去年であり、昨日であり、前の1時間であり、吐いた息が過去になります。
「現在世」も、とりつめれば今年であり、今日であり、今の1時間であり、今の一息が現在の当体となります。
「未来世」も、これも叩けば来年となり、明日となり、1時間先となり、吸う息が未来となります。
 ですから、仏教の三世とは、吸う息、吐く息の中にある事になるのです。
 念々のうちに、三世が収まっているのですね。

故に、ただ今の一念を徹見すれば、果てしない過去から流転してきた自己も明らかになるし、未来の一大事も知らされる事になります。

ですから、現在の救いがなくして未来の救いはないのですから、「現生(現在)不退」、「平生(現在)業成」、「不体失(現在)往生」と、親鸞聖人が、現在の救いを強調されたのは当然なのですね。