前回記事で書いた「親鸞聖人が七高僧として尊敬される、インドの龍樹菩薩や天親菩薩は我々の生命の元を研究大成されています」という点を補足します。

まず、龍樹菩薩について、親鸞聖人は、正信偈でこれに関する事を説かれます。
「 龍樹大士出於世 (龍樹大士、世に出でて、)悉能摧破有無見 (悉く能く有無の見を摧破し)」(正信偈)

人間死んだらどうなるか。
有史以来、様々に議論されてきましたが、大別すれば、「有の見」と「無の見」の二つになります。
仏教では、有の見・無の見共に真実を知らぬ外道と教えられ、龍樹菩薩は、この有無の二見を徹底的に打ち破られた、と説かれるのですね。

「有の見」は常見外道とも言われ、固定不変な霊魂なるものがあって、死後も残るとする考えです。
 ほとんどの宗教は常見です。例えば、死者の霊が特定の場所にじっと鎮座して、我々に禍福を与える力を持っている、とするものはこれに当たります。
 ですが、仏教では、死後の世界は一カ所に留まれるものでもなければ、皆が集まっておれるものでもない。因果の道理に基づき、各自の生前の行為によって、死後の行方はそれぞれ異なる、と説かれるのですね。
 
他方の「無の見」は、断見外道とも言われ、死後はないとする考えです。唯物論者等はこれです。
しかし、どんなに理屈で死後を否定したところで、人間の気持ちは収まりません。
弁証法的唯物論で死後を否定するマルクス主義者・中国の首相だった周恩来は、「もうすぐマルクスに会える」
と臨終に言ったそうです。死が眼前に迫った時、後生が無になるとは、とても思えなかったからでしょう。
どんな政治家、知識人も、己の魂の行き先には無知である事が分かります。

さて、仏教では、私達の永遠の生命を阿頼耶識と言われます。

唯識思想を大成したと言われる天親菩薩は、阿頼耶識について、
「恒転如暴流(恒〈つね〉に転ずること暴流〈ぼうる〉の如し)」
と説かれます。

暴流とは滝の事です。遠くから眺めれば、一枚の白布を垂らしたように見える滝も、実際には多くの水滴が激しく変化しながら続いているのです。

そのように、阿頼耶識は、自分の行為を次から次へと業力として収めて絶えず変化し、流転輪廻していくのですね。