前回記事の「『生滅あれども断ならず、相続すれども常ならず』と教える仏教の真意」という点を補足します。

仏教以外の宗教を外道を言いますが、大別して2種あります。
・断見外道…「死後は無になる」という教え。無の見とも言われる。
・常見外道…「死後、肉体は滅びても、常一主宰(固定不変)の霊魂が存続する」という教え。有の見とも言われる。

釈尊ご存命の当時、インドには95種の外道があったとされますが、断見外道と常見外道に大別されます。そして、仏教はそのいずれでもない事を明言されたのが、
「因果応報なるが故に来世なきに非ず、無我なるが故に常有に非ず」(阿含経)
"蒔いた種は必ず結果を生ずるから、「死後は無になる」という事はない。固定不変の「我」というものは存在しないから、「死後、霊魂なるものが存続する」という事はない"
というお言葉です。

このお言葉を意訳すると、
「生滅あれども断ならず、相続すれども常ならず」という事になるのですね。

釈尊は「死後は無い」という断見は間違いであり、また、生死を繰り返すが絶対に変わらぬ「霊魂・魂」という常見も間違いであるとされています。

ここは非常に難しいところです。こういった事を学ぶ学問を「唯識学」と言います。
親鸞聖人が七高僧として尊敬される、インドの龍樹菩薩や天親菩薩は我々の生命の元を研究大成されています。

さて、過去世よりこの世に生を受け、やがて死んでゆく、この生死を果てしなく続ける事を「生死流転」「流転輪廻」と言われます。

例えて言うと、貯金通帳が次から次へと移り変わって行くようなものです。
通帳の金額を出し入れしていくと銀行のATMで自動的に記録されていきます。最後になると銀行員に新しい通帳を作ってもらい、また出し入れしているうちに通帳が一杯になり、新しい通帳に金額が移っていきます。
金額の流れは狂いがありませんが、前の通帳と、新しい通帳は明らかに違います。

そのように、私達の永遠の生命(阿頼耶識)といえども通帳が移り変わって行くようなものです。永遠に変わらない「我」というものは無い。それを「無我」と釈尊は言われたのですね。

最近説明しているように、「無我」なら死んだ後は無い、と思いがちですが、これは「断見外道」と言われるのです。

また、通帳の金額は常に変わっていますから「常有(我)」ではないのですね。