前回説明したように、「無記」を根拠として「釈尊は死後を説かれなかった」
と主張される事があるのです。
なぜこんな僅かな根拠から、経典の至る所に説かれる死後を無視して、そんな主張がされるのでしょうか。

まず、このような主張をするのは、近代仏教学の影響を受けた人達が多いと思われます。
近代仏教学というのは、大正時代以降、文明開化の風潮で、日本の仏教学者が西洋の文献学的な仏教研究を取り入れたものです。
西洋の仏教研究は、19世紀頃始まったもので歴史も浅く、文化的に言葉と論理を重視する為、論理的に理解できない事は否定してしまう傾向があると言われます。

何が理解できなかったかというと、仏教では「無我」を説かれて、固定不変な霊魂は否定されているのに、死後「輪廻転生」するというのは、変ではないかという事です。

仏教ではどちらも説かれていますが、次のように理解すれば、そこに矛盾はありません。
過去に何度も説明しましたが、仏教では阿頼耶識という永遠の生命が、もの凄い勢いで変わりながら流れる、と説かれるのです。

ですが、当時の仏教学者は、西洋思想から理解し易い「無我」を受け入れ、「輪廻転生」を否定し始めたと思われます。
そして、経典の至る所に説かれる輪廻転生は、当時のインド文化の影響で、釈迦は当時の人々に合わせて使われたけれども、本心ではない等の、さしたる根拠もない事を言い出したのでしょう。

もし、釈尊が死後を説かれなかったとか、説かれたとしても本心ではないとすれば、輪廻転生からの解脱という仏教の目的も、意味がなくなり、仏教の教えはこの主張によって破壊されてしまいます。

このように、自分の考えで、2600年程も前から続いてきた仏教の教えを曲げてしまうという危険があるので、仏教を学ぶ時は、自分の理解に教えを合わせるのではなく、仏教の教えを自分が理解するようにしたいですね。

ところが、この主張は、日本の仏教学会である程度受け入れられてしまい、大学で学ぶ仏教の多くは、このような西洋の影響を受けた近代仏教学になってしまったと言われます。

最近では伝統仏教の大学でも、この近代仏教学の影響を大きく受けているようです。
そして、現代の日本の大学で、自分の人生に関係のない学問的なものが多くなり、人が本当の幸せになる事を追求する、本来の仏教を学ぶ事は困難になってしまったのでしょう。