前回記事の「毒矢のたとえ」に関連して、「釈尊は死後を説かれなかった」と言われる事がある、という事を紹介します。

仏教では、死後が無になる、死後はないという考えを「断見外道」と言い、「全ての結果には必ず原因がある」という因果の道理に反するので、否定されます。

また、七千余巻もある仏典の至るところに、地獄や餓鬼、畜生等の六道や、生死輪廻が説かれます。これらは生まれる前や死んだ後の事です。
漢訳の大乗経典は勿論、小乗経典等でも同様だとされます。

仏教の目的は、どんな宗派であっても、「生死輪廻からの解脱」です。
「生死輪廻」とは、、私達は生まれ変わり死に変わり、車の輪が回るように苦しみ迷いの旅を果てしなく続けて行く事です。
「解脱」というのは、その輪廻から離れて二度と迷わない身になる事です。
この仏教の目的は、どの宗派にも共通して明らかな事で、仏教における大前提です。

もし仏教で死後を説かれていないとすれば、釈尊が仏教を説かれた意味は、なくなってしまうでしょう。
仏典で至るところに死後を説かれているのは、当然の事なのですね。

ところが、一部に
「釈尊は死後を説かれなかった」
という意見があります。
一体どういう事なのでしょうか。

その最大の根拠は、箭喩経というお経にある「無記」だと言われます。
「無記」とは、
「釈尊がお答えになられなかった」という事です。
それはどんな事かと言うと、ある哲学青年が、釈尊のお弟子となり、
「如来(にょらい)の死後はどうなるのでしょうか?」
とお尋ねしました。「如来」というのは「仏」と同じ意味で、生死輪廻から解脱した人の事です。
それに対して釈尊はお答えになられず、前回紹介した「毒矢のたとえ」を説かれたのですね。

このような、自分の救いに関係のない問いを仏教で「戯論」と言うのです。
釈尊が質問に答えられなかったのは、
「如来は死後どうなるのか」という問いは、この青年の救いとは関係なく、単なる知識欲を満たす為の、戯論だったからなのでしょう。知識欲は無限に満たしきる事はできませんが、無常は迅速ですので、戯論を問題にしているうちに、人生が終わってしまいます。

ところが、この「無記」を根拠として
「釈尊は死後を説かれなかった」
と主張される事があるのですね。

なぜこんなわずかな根拠から、経典の至るところに説かれている死後を無視して、そんな主張がされるのでしょうか。

続く。