さて、まだ紹介していないお釈迦様のエピソードを紹介します。

ある日、お釈迦様が大樹の陰で瞑想なされていた時、お釈迦様にある男が近づいてきました。目を険しくいからせた男は、真摯に求道の指針を仰ぐ弟子達とは雰囲気が違い、無為な議論の為に来た事が、誰の目にも明らかだった事でしょう。そして、次のように言いました。

「あなたは一切の智者だそうだが、後ろの木の、葉の数を知っているか」

お釈迦様は静かに答えられました。

「知りたければ、そなた、数えてみよ」

仏語に
「戯論(けろん)」という言葉があります。
議論の為の議論、机上の空論、人生に真面目でない、無益・無意味な議論の事を言います。
例えば、「宇宙には果てがあるのか」・「世界はいつまで続くのか」等の問いがこれに当たるでしょう。

戯論に応ずる事も、また戯論です。
人生の本質と無関係な議論をお釈迦様は相手にされなかった訳ですね。
生死の大問題に向かう仏法者に、無駄な時はないからでしょう。

お釈迦様は次のような譬え話でその事を教えておられます。

「遊歩中の男の足に毒矢が刺さった。一刻も早く抜かなければ命が危ない。友人達は、『すぐに矢を抜き、治療しなければ』と勧めたが、男は、『いや待て。この矢は誰が射たのか。男か、女か。その者の名前は。何の為に矢を射たのか。矢に塗られた毒はどんな毒か。それらが分かるまで、この矢を抜いてはならん』と言い張った。やがて全身に毒が回り、男は死んでしまったのだ」

無常は迅速です。
今、こうしている間にも、老いや病、そして死の苦しみが現実にあるではありませんか。
苦悩の根本原因と、その解決の道を説く仏法こそ真剣に聞く必要があるでしょう。人生の一大事は何か、よくよく知りたいですね。