前回記事で説明したように、読経や儀式で死者が救われるという信仰は、本来仏教にはなかったのです。
それどころか、そのような迷信を打破して、生きている時に、真実の幸福に導くのが仏教の目的だと言えるでしょう。

では、葬式や法事や読経は、全く無意味な事かというと、それは勤める人の精神の如何にかかっていると言えます。

厳粛な葬儀を通して、我が身を反省し罪悪観を深め無常を観じて、聞法心を強める縁とすれば有り難い勝縁となるでしょう。
 また、法事も、意味の分からない読経のみで終わっては良くありません。読まれたお経に説かれている教えを聞かせて頂いて、ますます、弥陀の救いを求めてこそ意味があると言えます。

死んでしまえば、生きている者が、どんなに騒いでも、どうする事もできないのです。

蓮如上人は、
「命のうちに不審もとくとく晴れられ候わでは、定めて後悔のみにて候わんずるぞ、御心得あるべく候」(御文章一帖)
“命のあるうちに、阿弥陀仏の救いに値わなければ必ず後悔するであろう。よくよく心得ねばならぬ”
と仰ります。

 「不審」とは、仏教で苦しみの根元とされる「後生暗い心」=「無明の闇」の事です。「疑情」・「自力の迷情」・「三世の業障」・「無明業障のおそろしき病」等とも言われます。
この「後生暗い心」を晴らす事が目的なのですね。

そして、油断ばかりしている者は一息切れて取り返しのつかない事になる。
早く後生の一大事を解決して信心決定しなさい。

いつまでもまだ大丈夫と目を奪われて、一息切れたら、定めて後悔のみにて候はんずるぞ。馬鹿だった馬鹿だった、どうしてもっと真剣に聞かなかったのかと後悔するから、心得ておきなさい、と言われています。

生きている時に、「後生暗い心」が晴れなければ、必ず後悔しますよ、仏法は生きている間が勝負なのだ、とお叫びなのです。

蓮如上人の訓戒を、噛みしめたいですね。