さて、これからは、まだ紹介していないお釈迦様のエピソードを中心に紹介していこうと思います。

ある日、お釈迦様はお弟子達を連れて、托鉢に出掛けられました。食料等の布施を鉢に受け、広く大衆と仏縁を結ぶ為でしょう。

ある男が近づいて、からかうように言いました。

「よく、あなた達は来なさるね。どうです、そんなに大勢の働き盛りの若者たちを連れて、ブラブラ乞食したり、訳の分からぬ説法などして歩かないで、自分で田畑を耕して、米や野菜を生産したらどうです。私らは難しい事は言わないが、自分で働いて、自分でちゃんと食っていますよ」

丁寧ではありますが彼の言葉には、「ものを生産してこそ労働ではないか」という、人々の施しによって生きる修行者達への軽蔑と、肉体を酷使して働く事への自負とが、ありありと見えていました。

男の言う事を静かに聞いておられたお釈迦様は、従容として、次のように答えられました。

「我もまた、田畑を耕し、種を蒔き、実りを刈り取っている労働者です」
 意外なお答えに、不審をあらわにして男は反問します。

「ではあなたは、どこに田畑を持ち、どこに牛を持ち、どこに種を蒔いていられるのか」

するとお釈迦様は、毅然として喝破なされました。

「我は忍辱という牛と、精進という鋤をもって、一切の人々の、心の田畑を耕し、真実の幸福になる種を蒔いている」

これに関連して、
「自信教人信 難中転更難 大悲伝普化 真成報仏恩」
という、中国の高僧・善導大師の有名なお言葉があります。
自らが信を獲る(弥陀に救われる)事も難しいが、他人を弥陀の救いまで教え導く事は、もっと難しい。だが、その最も困難な、弥陀の本願を一人でも多く伝える以上の仏恩報謝はない、と教えられているのですね。

以前も説明したように、仏教では法施は最高の善であると説かれますから、救われた人には最高の報謝、求めている人には最尊の仏縁、という事になります。

弥陀の本願は、未来永劫、我々を絶対の幸福に生かし切って下されます。
 その真実の宝を施す以上の、素晴らしい労働があるはずがない、という事です。

お釈迦様は、「我は心田を耕す労働者なり」の大自覚を持って、最高無比の労働に身命を捧げられたのですね。