前回記事の補足です。

死後の世界を否定する考えである「無の見」を、仏教では否定されました。
また、仏教では、「固定不変の霊魂」を認める「有の見」も否定し、全てのものは「無我」であると教えました。

過去・現在・未来と流れる永遠の生命「阿頼耶識」は、固定不変のものではなく、自分の行為を次から次と業力として収めて絶えず変化し、因果応報で流転している、という事になります。

死ねば魂が墓の下にジッと留まるとか、山や木や石に宿っていつまでも残っているとか、その霊魂が生きている人間に禍福を与える力があると説く思想を、仏教は否定されるのですね。

そして仏教では、全ての人は、各自の造った業によって、死ねば種々の形に心身が変化し、遠く独り去っていくものであると、次のように説かれます。

「遠く他所に到りぬれば能く見る者なし。善悪自然に行を追いて生ずる所、窈窈冥冥として別離久しく長し。道路同じからずして会い見ること期無し、甚だ難く甚だ難し、また相値うことを得んや」(大無量寿経)
"遠く他の所へ去ってしまえば、再び会い見る事はできない。 一人一人の善悪の行為により、次の生へ生まれ変わって結果を受けていく。
 行く先は遠く、暗くして頼る道もなく、愛する者とも永劫の別れをしなければならない。
 各自の行為が違うから、行く道も異なり、死出は孤独の旅となる。"

また、親鸞聖人は、
「呼吸の頃すなわちこれ来生なり。一たび人身を失いぬれば万劫にも復らず。この時悟らざれば、仏、衆生を如何したまわん。願わくは深く無常を念じて、徒に後悔を貽すことなかれ」(教行信証行巻)
“吸った息が吐けなかったら、吐いた息が吸えなかったら来世である。後生は遠い話ではない。死ねば、二度と同じ人身に戻る事は永遠にないのである。今、この一大事を解決しなければ、いつできるであろうか。永遠のチャンスは、今しかないのだ。されば、刻々と迫る無常を凝視して、決して後悔を残す事があってはならない”
と教えられます。
 
蓮如上人はこの大変な問題を、
「われらが今度の一大事の後生」(領解文)
と言われます。

全ての人の行く先に、「後生の一大事」がある事を教え、「その解決の道」を説示されているのが仏教であると言えるでしょう。
この問題を解決すれば、解決の瞬間から、永遠の生命が歓喜の生命となり、現在ただ今の人生そのものから未来永遠の幸せに生かされるのですね。