最近取り上げた「超世の悲願ききしより」の和讃に関連して、一口に「きく」と言っても、四通りあると言われる事を紹介します。

①聞き閉じる
②聞き流す
③聞き覚える
④聞き開く

最初の「聞き閉じる」人とは、尊い法を聞かせて頂きながら、居眠り半分になってしまうような人です。
聞法しながらも他の事ばかり考え、ただ体が座っているだけ、という人も同じ事。
このように、心を閉じて、法が入っていかないのは、「聞き閉じる」きき方です。

次が「聞き流す」人。
漫然と聞いて、少しも心に聞きとどめようとしない人です。忘れるのを自慢げに語る人さえあります。
また、「それも聞いた」等と、粗末に聞く人も同様です。

同じ話を、常に初事として聞き求めねばならぬのが仏法と、蓮如上人は、こう、戒められます。

「一つことを幾度聴聞申すとも、珍しく、はじめたるようにあるべきなり」(御一代記聞書)
"人は珍しい話、変わった話を聞きたがるが、何度、同じ事を聴聞しても、初事と聞かなければならない。"

珍しい話を聞きたい心は、敵。
弥陀の御心一つが分からないから助からないのですね。

皮相をなめただけで、分かった気になり、仏法を軽く見ていては、信仰は進みません。

三番目は「聞き覚える」人。
仏法を真剣に聞いて、理解しよう、覚えようとする人です。
他人事と流さず、教えの通りに忠実に実践しようと努める人でもあります。

しかし、覚えたのが他力の信心ではない。
分かろうとするのは「分かって助かろう」とする自力の心です。

様々な知識を増やす為の聞法では、いつまで経っても助かりません。
どれだけ合点を積み重ね、理解を深めても、それで極楽往生はできません。

「あながちにもろもろの聖教を読み、物を知りたりというとも、一念の信心の謂を知らざる人は徒事なりと知るべし」(御文章五帖目二通)

一切の聖教は、私達に弥陀の救いを知らせ、一念の信心を獲させる為に書き残されたものですから、大いに学び、教えの理解を深めるのは当然です。
しかし、どれだけ詳しく聖教を学び、知識を増やしたとしても、一念の信心を獲得し、弥陀の救いにあわねば、弥陀の浄土へは往けませんよ、と上人は戒められるのですね。

では、最後の、「聞き開く」とは、どのようなきき方でしょうか。
これは、「弥陀の本願まことだった」と聞いた事を言います。

続く。