「人間の実相」の続きです。

「やれやれ、この藤蔓のおかげで助かった。まずは一安心」と旅人が、足下を見た時です。
 旅人は思わず口の中で「あっ」と叫びます。

底の知れない深海の怒涛が絶えず絶壁を洗っていました。
 それだけではなく、波間から三匹の大きな竜が、真っ赤な口を開け、自分の落ちるのを待ち受けているのを見たのです。

旅人は、あまりの恐ろしさに、再び藤蔓を握り締め身震いしました。
しかし、やがて旅人は空腹を感じて食を探して眺め回します。その時です。旅人は、今までのどんな時よりも、最も恐ろしい光景を見たのです。

藤蔓の元に、白と黒のネズミが現れ、藤蔓を交互にかじりながら回っているのです。
 やがて確実に白か黒のネズミに、藤蔓は噛み切られる事は必至です。

絶体絶命の旅人の顔は青ざめ、歯は震えて止まりません。
 だがそれも長くは続きませんでした。

それは、この藤蔓の元に巣を作っていた蜜蜂が、甘い五つの蜜の滴りを彼の口に落としたからです。

旅人は、たちまち現実の恐怖を忘れて、陶然と蜂蜜に心を奪われてしまったのです。

釈迦がここまで語ると、勝光王は驚いて、「世尊、その話は、もうこれ以上、しないで下さい」と叫びます。

「どうしたのか」

「その旅人は、なんと馬鹿な、愚かな人間なのでしょう。それほど危ない所にいながら、なぜ、五滴の蜜くらいに、その恐ろしさを忘れるのでしょうか。旅人がこの先どうなるかと思うと、恐ろしくて聴いておれません」

「王よ、この旅人をそんなに愚かな人間だと思うか。実はな、この旅人とは、そなたの事なのだ」

「えっ、どうして、この旅人が私なのですか」

「いや、そなた一人の事ではない。この世の、全ての人間が、この愚かな旅人なのだ」

釈迦の言葉に、聴衆の一同は驚いて総立ちになりました。


以上が「人間の実相」の話です。

トルストイが、「これ以上、人間の姿を赤裸々に表した話はない」と絶賛した「人間の実相」の譬えは、何を表しているのでしょうか。


続く。