前回は真宗門徒のエネルギーが失われた原因として、江戸時代初期の状況を挙げました。

今回は江戸時代の中期の浄土真宗の状況を取り上げます。

この時代に碩学として名高い法霖という学者がいました。
彼の名を一躍世に知らしめた事の一つに、華厳宗の学者・鳳潭との法論があります。
鳳潭は、盛んに他宗を非難していました。
鳳潭が浄土真宗を批判した書物を発刊したのを受け、法霖は笑螂臂という書で、完膚なきまでに論破したとされます。この時、法霖40歳。

その4年後、彼は第4代目の能化(本願寺の教学の最高責任者)に就任します。

そして、この頃の本願寺には様々な問題があった事が、彼の古数奇屋法語という書から窺えます。一宗の繁盛を願うが故に、現状を嘆く言葉が溢れます。

「浄土真宗の正しい教えが伝わらないと、門徒の中から種々の異安心も起こり、今は繁盛している本山も、衰退していくのではなかろうかと、嘆かわしく思うばかりである」旨の事が書かれます。

彼の憂慮する、どんな事態が起こったのか。

石山戦争の後も、本願寺の屋台骨は揺るぎませんでした。増加の一途を辿る布施によって、13世法主・良如の時、壮大な「御影堂」が再建され、棟上げには全国から無数の門徒が参詣したとされます。
「唐門」「飛雲閣」等、今日西本願寺が国宝として誇る建築物も、ほぼこの時期に整備されました。
門徒からの布施で、本山は速やかに復興します。
本願寺が東西に別れる混乱もありましたが、100年も経つと両山共に体制が整い、表面的には空前の繁栄へと向かいます。
寺院数は急速に増加します。
 本山常勤者も、石山本願寺時代の60人程から、300人程の大所帯へと飛躍します。
 寺内町も益々発展し、正徳年間(1711年頃)には61町、約1万人が住んでいたとされます。 町内には、様々な講があり、日頃から信心の沙汰が熱心に行われ、住民間の結束も強かった。

一方、本願寺の社会的地位が高まるにつれて公家との結びつきが強まります。
 第14世法主の寂如は、公家から妻を迎えた上に、公家の子息を養子にし、跡取りに据えた。それが15世の住如です。

血脈のない後継者が元でお家騒動が起こり、見かねた幕府が関係者を閉門や流罪に処します。これは、更なる大事件の前触れでもありました。

続く。