前回記事で書いた「善の出来ない悪人に救いはあるのか。所謂キリスト教にその答えがあるのか、疑問を感じ」るという点については、あの国民的俳優・武田鉄矢の発言を思い出します。

10年程前に直木賞作家、東野圭吾の「白夜行」がドラマ化された時に(僕は原作をざっと読んだ程度でドラマ自体は未見ですが)、笹垣という刑事役を演じた武田鉄矢が何度も歎異抄の言葉を口ずさむのがちょっと話題になったそうです。

原作にはない歎異抄の言葉を使うようになったのは、武田自身の思いからでした。
その経緯について、武田は次のように語っています。

「犯罪者2人が愛というテーマでずっと何かを追い続けるのならば、笹垣も何か強いもの持っていないとダメだと思って、演出家と相談して、すき間すき間で親鸞の(教えを説いた)『歎異抄』を口ずさんでるんです。

…なぜ『歎異抄』なのかと言いますと、このドラマの持っている最終的な大きいテーマじゃないかと思うんだけど、
『善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや』というのがあるんですが、悪こそ救済の対象なんだという意味で、これは原作の中で深く漂ってるんじゃないかって思ったんですよね。
雪穂がマリア様に向かって自分の運命をのろうところがありましたが、マリアから打ち捨てられたヒロインを救いうる宗教は世界にたった一つ、親鸞の浄土真宗だけなんですよね。」

「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」(歎異抄第三章)
"善人でさえ、浄土へ生まれる事ができるのだから、ましてや悪人は、なおさら往生できる"

これは、有名な「悪人正機」(あくにんしょうき)を言われたものです。
悪人正機とは、悪人を救うのが、阿弥陀仏の本願、という事です。

悪を造らずしては生きていけないのが人間。全ての人をそんな極悪人と見て取られ「必ず助ける」と誓われたのが阿弥陀仏でした。

その弥陀の本願を明らかにされたのが親鸞聖人です。

武田鉄矢は歎異抄から、その深さを感じとったのでしょう。
背負った罪の重みから、キリスト教で解放されようとして救われないヒロインの絶望感、そこに武田鉄矢が呟く歎異抄の言葉…。

所謂キリスト教の限界といったものと浄土仏教の深さが感じられるエピソードですね。