RADWINPSに、「おしゃかしゃま」という曲があります。この曲は、一時期iTunesなどでも凄まじい人気だったようです。ここのところの記事の流れからも取り上げることにしました。
韻を踏んだラップがシャープなギターとリズム隊の織り成す怒涛のサウンドに乗って展開されます。かなり聴き応えがありますね。
またその歌詞の内容は宗教的なことにも踏み込んだ過激なものです。多くの人が持つだろう疑問を代弁しており、共感を呼んだのでしょう。
その疑問というのは、人間のエゴに対する疑問。科学技術の進歩により、クローン、人工受精など、人は意図的に生命の誕生に、そして死にすら大きく関わるようになりました。人間の都合によって、動物を減らしたり増やしたりする。しかし、「人間は増えても増やす」。エゴイズムを抉り出す歌詞です。そして、命を操つる姿を天地創造の「神」に喩えているが、「神」とは何かという鋭い疑問。古典的な西洋宗教は、「神がいる」ということを前提に全てが始まります。しかし、本当にいるのか。その疑問は、乱暴にいえば、ともかく信じればよいということで、ある種の思い込みの域を出ない形で脇にやられることが多いのではないでしょうか。そして、結局、「神」といっても人間が生み出した妄想の産物なのではないかと疑問を投げかける歌詞。ちょっと乱暴にいえば、人間世界、人間存在の疑問に対する苛立ち、そこから生じる虚無感から、自暴自棄になるような思いを訴える歌詞が、叫ばれています。そこが共感を呼んだのでしょう。
但し、この歌に「おしゃかしゃま」というお釈迦様をちゃかすようなタイトルをつけたことにはやや疑問が。歌詞は西洋宗教を揶揄するものが主です。そして、お釈迦様の説かれた仏教に、人間存在の疑問に真正面から向き合う教えが説かれているといえるにもかかわらず。
「ならば どうすればいい? どこに向かえばいい どこに」 この疑問に因果の道理を根幹とした教えに基づいて真正面から向き合っているのが、仏教であるといえるでしょう。
「天上天下 唯我独尊」。
大宇宙広しと言えども、私たち人間でなければ果たすことのできない、尊い使命がある。この世に生まれた、全ての人に生きている意味があるのだと(この言葉についてはいずれ詳細な説明をしますが。)。
広く宗教を象徴する偉人として、お釈迦様がロック的な懐疑精神の不当な対象となってしまった感もありました。
韻を踏んだラップがシャープなギターとリズム隊の織り成す怒涛のサウンドに乗って展開されます。かなり聴き応えがありますね。
またその歌詞の内容は宗教的なことにも踏み込んだ過激なものです。多くの人が持つだろう疑問を代弁しており、共感を呼んだのでしょう。
その疑問というのは、人間のエゴに対する疑問。科学技術の進歩により、クローン、人工受精など、人は意図的に生命の誕生に、そして死にすら大きく関わるようになりました。人間の都合によって、動物を減らしたり増やしたりする。しかし、「人間は増えても増やす」。エゴイズムを抉り出す歌詞です。そして、命を操つる姿を天地創造の「神」に喩えているが、「神」とは何かという鋭い疑問。古典的な西洋宗教は、「神がいる」ということを前提に全てが始まります。しかし、本当にいるのか。その疑問は、乱暴にいえば、ともかく信じればよいということで、ある種の思い込みの域を出ない形で脇にやられることが多いのではないでしょうか。そして、結局、「神」といっても人間が生み出した妄想の産物なのではないかと疑問を投げかける歌詞。ちょっと乱暴にいえば、人間世界、人間存在の疑問に対する苛立ち、そこから生じる虚無感から、自暴自棄になるような思いを訴える歌詞が、叫ばれています。そこが共感を呼んだのでしょう。
但し、この歌に「おしゃかしゃま」というお釈迦様をちゃかすようなタイトルをつけたことにはやや疑問が。歌詞は西洋宗教を揶揄するものが主です。そして、お釈迦様の説かれた仏教に、人間存在の疑問に真正面から向き合う教えが説かれているといえるにもかかわらず。
「ならば どうすればいい? どこに向かえばいい どこに」 この疑問に因果の道理を根幹とした教えに基づいて真正面から向き合っているのが、仏教であるといえるでしょう。
「天上天下 唯我独尊」。
大宇宙広しと言えども、私たち人間でなければ果たすことのできない、尊い使命がある。この世に生まれた、全ての人に生きている意味があるのだと(この言葉についてはいずれ詳細な説明をしますが。)。
広く宗教を象徴する偉人として、お釈迦様がロック的な懐疑精神の不当な対象となってしまった感もありました。