因果の道理の続きです。
目に見えない「業力」という種は、縁と結びついて、幸福や不幸という目に見える「運命」となって現れます。
「年毎に 咲くや吉野の 山桜 木を割りてみよ 花のありかは」(一休禅師の歌と言われます。)
毎年、見事な花を咲かせる吉野山の桜も、冬に行って見ても、枯れ木のような木が寂しく立っているだけです。「あれほど見事な花を咲かせるのに、花びらはどこに隠されているのだろうか。」と、木を一分刻みに割ってみた男があったそうですが、当然花びらはどこにもありませんでした。それもそのはず、木の中に蓄えられている目に見えない「勢力」が、「春の陽気」という縁と結びついた時に、初めて満開の花を咲かせるのです。春の陽気なしに、桜の木は花を咲かせることはありませんし、どれほど春の陽気があっても、木が枯れていては花は咲きません。
「因」と「縁」とがそろって「結果」が生じるのです。目に見えない業力も、縁が来れば確実に、善因には善果(幸福という運命)、悪因には悪果(不幸や災難という運命)、というそれぞれの結果を招きます。
善い種を蒔いて、すぐに結果が現れないとしても、焦ったり残念に思う必要はないのです。縁が揃っていないだけで、縁が来れば必ず結果は引き起こります。悪い種を蒔いて、すぐに悪い結果が現れないとしても安心は出来ません。縁がくれば、必ず悪果を引き起こします。
また、せっかく良いことをしたのに、誰も見ていなかったり、評価もされなかった時に、残念な気持ちになることはないでしょうか。反対に、悪いことをしたけれど、見つからなかったような場合に、ほくそ笑む心はないでしょうか。
これも、因果の道理に狂いはありませんので、種を蒔いたのに結果が現れない、ということは絶対にないということになります。
自分が良い種を蒔けば、縁が来れば必ず自分に良い結果が現れます。自分が悪い種を蒔けば、縁が来ればその報いは必ず自分に引き起こります。
どんな所に逃げても、たとえ警察から逃れることは出来ても、自分が蒔いた種の報いから逃れることは出来ないということになるのです。
“業力は大象百頭に勝る”と仏教では言われます。
業力は、何ものをもってしても止められないものすごく強い力なのです。
自分の運命の全ては、自分の行為が生み出した結果です。自分のやった行為には、自分が責任を持たねばならないということになりますね。
自戒していきたいところです。
目に見えない「業力」という種は、縁と結びついて、幸福や不幸という目に見える「運命」となって現れます。
「年毎に 咲くや吉野の 山桜 木を割りてみよ 花のありかは」(一休禅師の歌と言われます。)
毎年、見事な花を咲かせる吉野山の桜も、冬に行って見ても、枯れ木のような木が寂しく立っているだけです。「あれほど見事な花を咲かせるのに、花びらはどこに隠されているのだろうか。」と、木を一分刻みに割ってみた男があったそうですが、当然花びらはどこにもありませんでした。それもそのはず、木の中に蓄えられている目に見えない「勢力」が、「春の陽気」という縁と結びついた時に、初めて満開の花を咲かせるのです。春の陽気なしに、桜の木は花を咲かせることはありませんし、どれほど春の陽気があっても、木が枯れていては花は咲きません。
「因」と「縁」とがそろって「結果」が生じるのです。目に見えない業力も、縁が来れば確実に、善因には善果(幸福という運命)、悪因には悪果(不幸や災難という運命)、というそれぞれの結果を招きます。
善い種を蒔いて、すぐに結果が現れないとしても、焦ったり残念に思う必要はないのです。縁が揃っていないだけで、縁が来れば必ず結果は引き起こります。悪い種を蒔いて、すぐに悪い結果が現れないとしても安心は出来ません。縁がくれば、必ず悪果を引き起こします。
また、せっかく良いことをしたのに、誰も見ていなかったり、評価もされなかった時に、残念な気持ちになることはないでしょうか。反対に、悪いことをしたけれど、見つからなかったような場合に、ほくそ笑む心はないでしょうか。
これも、因果の道理に狂いはありませんので、種を蒔いたのに結果が現れない、ということは絶対にないということになります。
自分が良い種を蒔けば、縁が来れば必ず自分に良い結果が現れます。自分が悪い種を蒔けば、縁が来ればその報いは必ず自分に引き起こります。
どんな所に逃げても、たとえ警察から逃れることは出来ても、自分が蒔いた種の報いから逃れることは出来ないということになるのです。
“業力は大象百頭に勝る”と仏教では言われます。
業力は、何ものをもってしても止められないものすごく強い力なのです。
自分の運命の全ては、自分の行為が生み出した結果です。自分のやった行為には、自分が責任を持たねばならないということになりますね。
自戒していきたいところです。