昨日の記事では「明日がある」という我々の金剛の如き“信心”についてお話ししました。実は、この「明日がある」という信心はちょっと前にお話しした、浄土真宗で苦悩の根元と言われる、無明業障の恐ろしき病と密接に関連があります。

無明業障の病が「恐ろしい」といわれる一つの理由は、自覚症状がないからと言われます。
肉体でも、自覚症状がない病は恐ろしいもの。例えば、高血圧には自覚症状がほとんどなく、放置されがちです。しかし、長く続くと、負担のかかる血管や臓器に様々な合併症を起し、命に危険を及ぼします。癌も、自覚症状がないことが多くあります。特に肝臓は痛点がなく「沈黙の臓器」と呼ばれ、気づいた時には手遅れという事例を耳にします。早期発見・早期治療がなされれば治る病も、自覚症状がないと手遅れになります。同じように無明業障の病(疑情)も自覚がありません。

「明日がある」と、誰もが信じて生きている。そして「明日がある」と思う心は“明日”になっても また「明日がある」と思っている心です。今「明日がある」と思う心は永遠に「明日がある」と思う心であり、自分の影を踏もうとしてもどれだけ速く走っても踏めないように、明日になっても明後日になっても「明日がある」という心ですから、私達は「永遠に死なない」と思っている心なのですね。

このように、まだまだ死なない、何とかしたら何とかなれると思っている間は無明の病も分からず、医者も薬も問題になりません。「無明業障の病を治してくださる方は、大宇宙に弥陀一仏のみ」「その特効薬が南無阿弥陀仏ですよ」と勧める言葉も耳に入らない。この言葉も自分とは関係ないと思ってしまいます。

それがいよいよ心の臨終になると分かってくるとされます。念々に迫る無常に驚き、罪悪が知らされてくると、後生の一大事を助かりたい、という心があらわになり、弥陀一仏に向くのです。そして、南無阿弥陀仏を賜った一念に、疑情(本願を疑っている心)がぶち破られ、無明業障の恐ろしき病が全快、この病を治せる方は、弥陀よりほかになかった、薬は、「南無阿弥陀仏」以外になかったと明らかに知らされて、「誠なるかなや、弥陀の本願」とはっきりするとされます。

浄土真宗の世界では「仏法者に明日はない」としばしば言われますが、「明日がある」という信心に切り込んでいくことが、無明業障の病を直すために大切なことと言えるでしょう。