……どうぞ謬写(びゅうしゃ)とお読みください……

インチキ時代物を書き終えたところだからというわけでもないが、小説における風俗描写について考えてみたい。
亀井秀雄という国文学者の『「小説」論』(岩波書店)なる著作を読んで、江戸時代に曲亭馬琴が風俗描写の誤りを戒めていたことを知った。馬琴は『南総里見八犬伝』『椿説弓張月』の作者だが、少し長いが『「小説」論』から引用する。

《馬琴の『本朝水滸伝』批判はすでに紹介したが、かれは『本朝水滸伝』の風俗に関しても、古代の物語に掛行灯が出てきたり、美人局まがいの策略が行われたりする点を批判した。さらに言語に関しては、「跪く」ことは「ついゐる」と書くべきなのに、「つくばふ」などという「今の俗語」を用いたことを非難したのである。逍遥もそれに倣う形で、風俗の謬写とは、例えば足利時代の人物が煙草を喫んだり、三味線を引いたりするような、「時代違ひの器具調度もしくハ衣装装飾もしくハ飲食物等を写しいだ」すことだ、と指摘した。通説では、逍遥は馬琴の物語方法を否定したことになっているが、実際はこのように馬琴に倣って発想していたのである。》

坪内逍遥が明治期に「小説神髄」で馬琴に倣って風俗の謬写(誤った描写)を否定したことが述べられている。これはけっこう厳重なリアリズム志向である。馬琴・逍遥が生きていたら、拙作などはひとたまりもなく貶されたにちがいない。
だが、馬琴の風俗謬写排斥には理由がある。それは逍遥とは似て非なる理由だ。馬琴は徳川後期の読本作家であり、当時の読本は、一般読者を啓蒙して正しい知識を広める目的の一翼を担っていた。小説を読むことで昔の時代の勉強をするわけだ。
逍遥が風俗謬写を否定したのは、馬琴のような啓蒙ゆえではない。小説を西欧に倣って近代化しようという文明開花思想によってである。
近現代の時代小説・歴史小説は、基本的に馬琴・逍遥の路線で書かれてきたと思う。池波正太郎の作品は時代考証をきっちりと踏まえたもので、司馬遼太郎も歴史の大枠に忠実に描いた。星新一も一時期手がけた一連の時代物では時代考証を参照し、デタラメな錯誤は入れていない。
こういうリアリズム志向は過去を扱う時になるべくその時代の現実に近づけないと面白くならないとの発想に基づいている。だが、その発想の根拠をよく考えてみなければならない。恒久不変の原則ではないことが見えてくるはずだ。

われわれがフィクションを読む場合、それが昔話や民話のような単純で口伝によって長く受け継がれてきたものでも、話の背景がどんな世界かは一応考えて理解する。お婆さんが川で洗濯するなどという光景は現代ではまず見られない。洗濯機があるからだ。しかし昔は川で洗濯しただろうことは物理的に考えてふつうに了解できる。
だが、これが通用するのは大きな桃が流れてきて、なかから赤子が産まれるという荒唐無稽な話だからである。
ある地方出身者が都会の大学を出て医者になり、田舎に戻ってくる。親が取り持った縁談で年の離れた後家さんと結婚することになり、渋々夫婦生活に入る。しかし若い娘に惹かれた医者は浮気に走り…
という内容の小説で、心情の機微を細かく描くことに興味の眼目があれば、昔話のような描写では不足である。「彼は喫茶店で娘と待ち合わせした。それから酒場にハシゴした。それからホテルに入った。二人はエッチした」では週刊誌のゴシップ記事にもならない。
結局、小説は内容と表現の関数で決まってくるものなのだ。ある内容に対してしかるべき表現(文体)があり、その関数はうごかないと言ってよい。つまり、リアリズム志向でリアリティのある風俗描写を心がけ、決して謬写をやらない表現は、それにふさわしい内容に必要なものなのであり、どんなケースでも風俗謬写が悪いとは必ずしも言えない。
いままで時代背景の正確な記述が重んじられてきたのは、その記述にふさわしい内容を実現しようと作家たちが思ってきたからである。
正確な風俗描写を要さない世界観の小説は存在する。たとえば、フランツ・カフカの『城』を読んで、このシチュエーションはいつ、どこでの出来事だろう、プロイセンのヴォルフスシャンツェだろうか? それともプラハ郊外だろうか?と頭をひねる人は考えが硬直している。そんな記述がなくてもカフカは面白い。

風俗謬写が積極的に採り入れられた例は徳川後期の浮世絵や芝居(歌舞伎、浄瑠璃)に見ることができる。16世紀の盗賊・石川五右衛門を描いた『楼門五三桐』や、明朝末期の皇族の悲運を描く近松の『国性爺合戦』など、時代設定にもかかわらず、衣装は実際のものとは似ても似つかない。また歌川国芳が描いた土蜘蛛を退治する源頼光の絵など、頼光の格好は江戸期の役者そっくりである。
これらは当時の一般民衆の需要に応じてそうなったのである。そのほうがウケるし、人気を博すからそうしたのだ。べつにお客は風俗を謬写していても何の不都合も感じない。むしろちゃんと時代考証して、盗賊らしく武装した石川五右衛門が舞台に現れたら「なんだ、その殺風景で地味なのは」とブーイングしただろう。
類似の例は西欧にも見出せる。シェイクスピア劇の多くは昔の王侯か、あるいは外国の王侯を題材にしている。同じ英国の同時代の王侯にするとカドが立つからである。『ロミオとジュリエット』はイタリアが舞台だし、『ハムレット』はデンマーク王室の話なのだ。しかし衣装にも台詞にも、イタリアの都市国家やデンマークの特色はさっぱり見られない。当時の英国人に身近な自国の王侯貴族のなりをしている。
近代以前の世界では、風俗謬写こそが一般的だったのである。それを馬琴のような作家が戒めたのは、実態を正しく教えるべしという啓蒙精神からだし、坪内逍遥が戒めたのは、近代西欧がもはやそんなことをやらなくなり、リアリズム志向に変わっていたからにほかならない。

僕はもう一度近代以前の立場でやり直してもよいのではないかと思っている。小説は、面白ければ何をやってもよいのだ。文芸が世のためとか道義のために奉仕するものというのはむしろ前近代的発想であって、実は近代日本にあった文学観や社会主義リアリズムなども、近代社会における近代以前の思考習慣の発露にすぎないと思う。

われわれはもっと近代化していい。