カフカは夢の話のような小説を書いたと言われており、そればかりか実際に見た夢の記述も残している。だが、彼のインスピレーションの源泉は夢だったとか、夢見る主体の意識から彼の作品に描かれた悪夢的な光景が生じたという見方は僕にはつまらない。その種の見解はシュルレアリスムに代表される深層心理の露呈へ人をいざなう。カフカ自身の不安と恐怖(お望みなら社会的・歴史的な不安)、ユダヤ人として払拭できぬ被差別感や孤立感から彼の特異な作品が書かれたというお定まりの説を繰り返すことになる。
僕がカフカを面白く感じる理由は、その種の「なぜカフカはこういう小説を書いたのか?」という意図の詮索とは関係ない。カフカはたしかに非常に悪夢めいたエピソードを書いたが、それらは本当に予期せぬ悪夢であり、運命的な悲劇なのだろうか?
「変身」の主人公ザムザはある朝目覚めたら虫になっている。そこから家族に疎まれて、親身になってくれた妹にさえ裏切られ、投げつけられたリンゴが背中に刺さって腐るまま死んでいく過程は不条理な悲運という言葉が当てはまる。この作品はすばらしい技術を駆使して書かれた。だが、いちばん面白いのは虫としてくたばるプロセスを楽しんでいるかに見える点で、ブラックユーモアにはちがいないが、「変身」は悲劇を描いた小説とは思えない。
主人公が惨めに死ぬ話が悲劇でなくて何なのか、と言う人は悲劇の何たるかを知らない。僕はごく古典的な定義に沿って言うのだが、悲劇とは神の摂理によって宿命づけられた高尚な劇であり、喜劇はそれに反して人間の意思で展開される俗な劇なのである。
カフカの小説はすべて喜劇である。扱われた題材が、旧約的な言い伝えであったり、ユダヤ教の戒律を連想させる掟であったりしても、作品のなかに運命劇めいた要素はない(悲劇のパロディを思わせる要素はある)。むしろ『金閣寺』『豊饒の海』の作者のほうがよほど悲劇趣味であろう。


「判決」と題された短編を一晩で書き上げた時、カフカは自分の本領を見つけたと思ったらしい。この小説のクライマックスは父親に死刑宣告される場面だろうが、寝室でベッドの上に立つ父親が裁判官のように描かれ、不利な弁明に「思うはなから忘れていく」息子の滑稽さが際立つ。擬似的な裁判の形をとるのがすでに悪い冗談のようである。
「判決」の最後に主人公が橋から川へ飛び込んだ後、「無限の雑踏」が始まったと述べて締めくくられるが、この群集の雑踏は主人公が存在しなかったも同然に始まる点で「変身」のラストでピクニックに出かけるザムザの家族たちと同じだし、「断食芸人」のラストで飢え死んだ断食芸人の檻に代わりに収まり聴衆の耳目を惹く豹とも同じだろう。主人公たちは存在を消滅させるだけでなく、彼らを取り巻く世界は主人公たちがいなかったかのように日常を取り戻す。
こうした顛末を読むと、人はカフカを深刻で暗い絶望を描いた作家だと思ってしまいかねない。だが、カフカの荒唐無稽さは実は快楽的なものである。「判決」の主人公が死刑を宣告され、階段を駆け下り、女中をおどろかせてから川へ飛び込むまでのスピード感。例の「無限の雑踏」は畳みかけるように記され、結ばれる。まるで機械のように自動的に展開するさまに単なる悲惨の強調を超えた快楽があるのを見落とすことはできない。「断食芸人」は口に合う食べ物がなかったために断食するようになった。緩慢な自殺に似た餓死は、しかしあまり人気がない見世物である点で、道化師のマイムにも似た滑稽さを備えている。断食芸人が飢えて衰弱していくさまには鼻歌を歌うような軽やかさがある。
「父の気がかり」に出てくる珍妙な生き物が自分の死後も生き続けると思うと胸を締め付けられる心地がするという結び。「町の紋章」における、巨大な拳が天から降ってきて七たび町を打ち壊す言い伝えゆえに、その破壊を待ち望む人々によって町の紋章には拳固が描かれているというくだり。「万里の長城がつくられるまで」に組み込まれることになる小品「皇帝の使者」は決して目的地にたどり着けないことを示している点で「掟の門」や長編『城』とも類似している。
死ぬことも、目的地に到達できないことも、カフカにあっては同じ機能をおびた出来事なのだ。それは、死ぬことそのものに重点が置かれていないためである。カフカは死の意味を問わない。罪も罰も問わない。「流刑地にて」で囚人の背中に彫られた罪状に詳しく言及されないのは、罪状なんてどうでもよいからだ。ただカフカは機械の厳正さが人間の意思を超えて抹殺していくさまに惹かれている。
目的地にたどり着けないことも、目的地が何かを問わない点で同じである。「掟の門」でついに門のなかに入れてもらえなかった男に、門番は理不尽にも「この門はおまえのためだけの門だった」と告げる。だが門の向こうの正体は不明なままだし、男が入れてもらえなかった理由もわからない。それが書かれていないのは、書く必要がないからである。この逸話は男がなぜか門に入りたがったのに拒まれ続けて生を終える荒唐無稽さを述べたものにすぎない。この小品はスラップスティック・コメディのように滑稽だ。


小品「橋」の橋人間のエピソードなどは、ヒエロニスム・ボスの絵と比較してみたくなる。橋は落下し、谷底の岩に突き刺さるが、そうなる過程を描くのは快楽によってである。長編『審判』の人物たちは各人に課せられたデタラメな環境を楽しんでいるかに見える。小品「夜に」で不寝番をしている人物はレム睡眠時の意識の象形化だと解されているが、事柄の内実にかかわりなく、ただじっと耐えて「誰かが目覚めていなくてはならない」さまは面白い。
僕がカフカに感じるのは理不尽さに快楽を見出している人であって、それはブラックユーモアだが、皮肉や諷刺の意図を込めた笑いではない。ただ単純に理不尽さが面白いから書かれたのである。実存とか何とか御託を付与され語られた時代があったが、そんな七難しい意味など無い。カフカはひたすらに快楽的な作家である。