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カート・ヴォネガットは生涯に1ダースを超える長編小説を書いた。40年以上に及ぶ作家生活を思えば、この数字は決して多いものではないし、とりわけ日本人にとっては寡作に見えるだろう。何しろ年間に10作以上書いている小説家が、日本ではいまだに両手の指では数え切れないのだから。
しかしともかくもまとまった長編小説を数年おきに発表するというスタイルは、ヴォネガットの時代にはオーソドックスだった。いまでもそうかもしれない。村上春樹は何巻もかかる長い小説を書いているが、それとてもべつに例外的な事態ではない。どちらかといえばファンタジー物のハリウッド映画が回を重ねるのに似ている。続き物だが毎回、1作品としてまとまりのある内容をもつべく作られている。
ヴォネガットが近代以降オーソドックスとなった長編小説の様態を踏襲し続けたのはなぜだろう。それが悪いというのではない。『タイタンの妖女』も『母なる夜』も『猫のゆりかご』も『スローターハウス5』も、秀作である。後期の『青ひげ』や『ガラパゴスの箱舟』も優れた作品と言っていい。
だが、この評価はある意味で相対的なものだ。そういわざるをえない。ヴォネガットは彼の小説のヴィジョンにおいて数多の凡庸な作家たちを凌駕している。例えば、フィリップ・ロスの『さようなら、コロンバス』より『タイタンの妖女』は優れている。サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』より『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』は優れている。ウィリアム・バロウズの『ノヴァ急行』より『スローターハウス5』は優れている。ジョン・バースの『酔いどれ草の仲買人』より『スラップスティック』は優れている。
だがこうした比較の上での優秀さは、ヴォネガットを比較を絶する天才にさせはしない。実際、僕は『スローターハウス5』とマーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』を比べて、『スローターハウス5』がトウェインに匹敵する傑作だと断定する気になれない。『母なる夜』をもってしても同じことだ。
どういうことか。例を挙げよう。ハーマン・メルヴィルの『ピエール』。これを凌ぐ小説的技巧を備えた作品なら、スティーヴ・エリクソンにも書けるだろうと思う。ところがメルヴィルの『ピエール』は比較を許さない作品であり、小説の形式的な諸要素においてずっとウマい何人かの小説家でさえ、この作品以上の傑作を残しているわけではないのだ。
なぜだろう? 
メルヴィルはある意味で、スティーヴ・エリクソンより馬鹿である。アーネスト・ヘミングウェイより確実に馬鹿だし、トマス・ピンチョンより間違いなく馬鹿だろう。小説を巧みに仕上げようという企図を半ば忘れ果てて書かれたのがメルヴィルの『ピエール』そして『白鯨』なのだ。巧みに仕上げる意図はおろか、『白鯨』をあのような百科全書的作品にしたことについて、そうしようと思って書いたにせよ、それがどんな文学的効果をもたらすかということをほとんど意識しなかっただろうと思う。
断っておくが、僕は作者の意図の詮索がしたいわけでも、作品成立の過程を重要視したいわけでもない。ごく単純に、『白鯨』は唐突さと無骨さにみちた小説なのである。鯨学の章が「おお、時よ、力よ、金よ、そして忍耐よ!」と結ばれる時、僕らはこの章末がネタ切れの末のやっつけのフレーズだと感じる。とうてい周到に企てられ、緻密に効果を計算された部分だとは思えない。あらゆる部分が同種のいいかげんさにみちているのが『白鯨』である。メルヴィルはろくすっぽ考えずに出たとこ勝負で書いていったのは事実だろう。
にもかかわらず、『白鯨』はピンチョンの『重力の虹』より読む者にめまいのような茫然自失を感じさせる。19世紀の小説家に、20世紀の小説家が及ばないという事態。しかしこれこそが僕らを取り巻いている状況ではないか。
カート・ヴォネガットもまた、メルヴィルよりも圧倒的に利口な作家である。マーク・トウェインと比べてもずっと聡明だろう。たぶん、ヴォネガットはトウェインの『人間とは何か』の無視しがたい論理的欠陥をやすやすと指摘できるはずだ。
だが、ヴォネガットがごく聡明であることは、彼の小説に限界を課すことになった。より巧みに構築された世界観のなかで、注意深く選ばれた簡潔なフレーズで成り立つ細部の切片を有機的に組み立てることにおいて、ヴォネガットは古典主義的な完成度に達している。『母なる夜』はスティーヴ・エリクソンの『黒い時計の旅』よりも優れている。『猫のゆりかご』はだらしなく弛緩したジョン・バースの『やぎ少年ジャイルズ』よりもはるかに優れている。だがその秀逸さは、内容を引き出す上で最大限の効果を上げる表現に達しているか否かの差にすぎない。もちろん、それはだれにでもできることではない。ヴォネガットがきわめて貴重な存在だったのも、そのことじたいが稀少なことだからなのだ。
聡明で無駄のない形式を目指した結果、ヴォネガットが何を犠牲にしたのか。
ヴォネガットが見殺しにしたのは、細部から派生するかもしれないイマジナティヴな多元化の可能性だった。アメリカ映画が一点に向かって集中する形式で世界を席巻したのを思い出そう。僕らはD・W・グリフィスの『国民の創生』を見て、南部人の人種差別とKKKの賛美に違和感を覚えても、クライマックスの盛り上がりに興奮してしまう。ヴォネガットは映画の世紀の作家である。どこへ行くのか定かでない細部を書き付けることなど、無用なのだ。
しかし僕はヴォネガットの小説を読み終えた時、すこぶるおもしろいと思いはするが、同時にいつもいささかもったいない気分になる。その気になればもっと枝葉を広げたかもしれない細部が、内容全体を形づくる有機的な要素のひとつで役目を終えているからである。

ともかく、ヴォネガットが選んだオーソドックスな長編小説の形式は、彼の小説の可能性を狭めてしまったと僕は思う。ヴォネガット自身にそれ以外のことができたかどうかはわからないにしても。しかしまた、それが時代の選択というものなのだ。ヴォネガットは小説において、たしかに彼の時代の典型だったといえる。好もうと好むまいと、人は自分の時代の影響から逃れられない。僕らもまたそうなのだ。