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このところ、創作の続きを書いていない。近々復帰しようと思っているが、僕自身の健康状態も悪いし(痛風発症中なのである)、小閑というところ。まあ暇つぶしに、思いつくまま気ままに書いてみる。


近世ヨーロッパのバロック時代は思いのほか短い。イタリア人でオペラを初めて導入した一人とされるモンテヴェルディが活躍した17世紀前半がその初期。ルネッサンスの末期でもあった。ひとつの時代はその直前の時代に媒介されている。ヘーゲル式の文言。
モンテヴェルディの時代はいわゆる三十年戦争の頃で、ドイツなどは諸外国の介入でずいぶんひどい目に遭った。バロック時代はその頃から18世紀前半までの百年間ほどの時代である。戦争と、その傷が癒えるまでの戦後期とでもいうべきか。
J・S・バッハなどはドイツの一地方の作曲家だったから、イタリアのような音楽の最先端の国に比べて様式が一時代遅れたといえる。事実、バッハは晩年の1740年代、後輩にケチョンケチョンに批判された。いまとなっては下らない批判にすぎないが、要するに古臭く、難解で、とてもいまのご時世にふさわしい音楽とはいえないという評価。この批判が現れる十数年前からバッハは古臭い音楽になりかけていた可能性がある。バッハ自身も好んでむかしの音楽のやり方をとり入れた。
この批判はどうでもいい感じがするが、バッハにはどうでもよくなかった。つまらぬ批評だが、意外と世間に波及効果があったのかもしれない。バッハ自身もクサクサして、ますます象牙の塔に篭もるようになる。カンタータの作曲は続けていたが、晩年の「フーガの技法」はバッハの抽象性を極端に押し進めたもので、「古臭く、難解」と評されたことへのいわば開き直りである。
ヨハン・セバスチャン・バッハと同い年の大作曲家が少なくとも二人いる。

 ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル
 ドメニコ・スカルラッティ

三人とも1685年生まれ。バッハが最も早く死んだ。ヘンデルとドメニコ・スカルラッティはもう少しだけ長く生きた。

ヘンデル「最近、バッハ君が死んだな」

スカルラッティ「ああ」

スカルラッティはイタリア人のはずだが、ヘンデルもイタリア語を話せたことにする。逆はなかろう。

スカルラッティ「バッハは目の手術に失敗したらしいね。ツイてないよな」

ヘンデル「ああ。しかしまあ、われわれも死ぬのが惜しい年でもない。近々お迎えがくるよ」

スカルラッティ「たしかにね」

スカルラッティは自分の身体に組み込まれた古時計のことを思い浮かべた。「大きな」古時計ではない。大きなのっぽの逸物なら股間にある。だがスカルラッティの胸にあるのは古時計のほうだ。

 巨きな時計
 おほきな古時計よ
 大きな のっぽの
 のっぽの時計よ
 おおきな

マヤコフスキーの時計は身体じゅうにあったらしい。難儀な人がいたものだ。
バッハの古時計もある朝、ピタリと止まった。それきりバッハのいのちは終わり、魂はたぶん、天に召された。時計は生きてるあいだ、絶え間なくうごきつづける。止まったら大変だ。時々止まったり、速くなったり遅くなったりすると不整脈とか悪い病の兆しとなる。
スカルラッティは思う。バッハほどリズムに敏感だったやつはいない。厳粛で、荘重で、人を酔わせる甘美さや快活さよりは構築のほうをよほど好んだ。カキ殻みたいにごつくて、とても食べられたもんじゃないと悪態をつく輩もいるが、そんな御仁にはどんな間抜けも小躍りするパープー・ダンスミュージックが似つかわしいのだろう。犬には犬が、ロバにはロバが、豚には豚がきれいに見えるというからな。
バッハはバロック時代最後にして最高の音楽家だった。そのバッハが死に、バロックらしいバロックを奏でるやつもいなくなった。最後の文士。最後のロマンチスト。最後のバロック。しかし「最後のバロック」っていうのはいまいちだな。格好がつかない。こんにちは、最後の文士です。これは良い。風格がある。はじめまして、最後のロマンチストです。これも良い。女の子にモテそうだ。
どもども、最後のバロックです。なんだそりゃ。
スカルラッティは深呼吸する。
そんなスカルラッティ自身もバロック音楽の後裔にはちがいない。あのいびつな真珠の末裔にはちがいない。それでも世界でいちばん邪悪な一族の末裔か。
しかし、イタリアから招聘されてスペイン王室へ渡り、王女つきの音楽家になってから、スカルラッティは難解な曲を書いていない。どちらかといえば平明な曲が多い。メロディの心地よさ、短いなかに変化に富む構成を楽しませる楽曲だ。ひとつには、王女本人も含めて王室の周りにいる何人かにも弾ける曲を書く必要があったからだが。

スカルラッティ「昼はいまや終わりぬ、夜は近づきぬ…」

夕べの影法師が空に忍び寄る。