中上健次が最初に書いた小説は何かとなると、高校時代に書いた作品があって知られていないとの説がある。だが一般には高校卒業の頃書いて文芸同人誌に寄せて断られた「俺、十八歳」が処女作だと見なされている。この小説はのちに「十八歳」と改題した。
「十八歳」は内容的に作者中上の実人生を描いていると言われている。事実がどの程度含まれているのか僕にはわからない。だが、主人公の兄が自殺するエピソードをはじめ、主だった事柄は事実に即していると言われている。とはいえ、自伝的な作品というのではない。
稚拙さはあるが、中上健次の特質はおおむね備わっているし、何より草原や自然のなかで風に吹かれてるような印象が爽やかで忘れがたい。「十八歳」の主人公は突然の兄の死に戸惑っている。母親、姉たちが嘆き悲しむなか、主人公はこのショックをどう理解すべきなのか、意味を見出そうとして途方に暮れている。
しかし後年、この兄をべつなキャラクターに造型し直して書いた『奇蹟』では、何だか新派大悲劇ふうの大仰なものに作り替えてしまった。中上自身を投影したはずの秋幸も「兄の仇をとったる」と息巻くチンピラの卵みたいなキャラになり、鼻白む。「十八歳」の主人公のリアクションがおそらく中上自身の現実の反応に近かっただろうと思う。

「十八歳」は色んな意味で重要な作品だと思うが、それはその後の中上健次の要素を多く胚胎しているからで、われわれにとってよりも作者中上自身にとって重要だったはずである。この短編は中上にとっても思い出深いものだったにちがいない。また、「ここに俺がある」と思って、その後読み返したかどうかはともかく、たびたび振り返って省みた作品であったろう。こう書くと、「岬」以降の中上作品とはクオリティの差がありすぎると思うかもしれないが、作家は傍目には思いがけないところに自分自身の原点を定めているものなのだ。
「十八歳」は後年の中上のように小説を物語にしていない。僕はいま実際に本をめくっておらず、記憶のなかから引用するのだが、「俺たちは戦争に行かなくてすむ時代に生まれて幸運だな」とつぶやく少年たちは、周りに事件性がないこと、平和なことに安堵しながら、その平和を当然のことと信じ切っているわけではない。
何らかのドラマが発生するかもしれない、その契機を目指して主人公の生活は語られる。不意打ちのように、兄が自殺する。「十八歳」が期したのはこの兄の死を物語によって包囲することではなく、むしろ「戦争に行かなくてすむ」幸運を知っている主人公が、戦争といったありきたりな惨禍を離れてドラマと直面せざるをえなくなる事態を、つまりはフィクションが生まれるのは事件の大小によってではないことを証し立てる小説の出現にほかならない。中上が「十八歳」の次に書くべきは、出来事じたいの性質(=物語内容)によらずにフィクションを定着させた作品であるはずなのだ。
「十八歳」に大した事件は語られていない。この短編のおもしろさは細部にあり、終盤の兄の死など、余計な闖入物と思われるほどだ。実際、中上に生涯つきまとったこのオブセッションは、中上の躓きの石かもしれなかった。

中上健次が物語にこだわるようになったのは「岬」ぐらいからだろうか。それ以前の初期中短編は「灰色のコカ・コーラ」にしろ、「一番はじめの出来事」にしろ、大江ふうの諸作品にしろ、さほど物語性に重点がない。
「岬」から『枯木灘』『鳳仙花』『千年の愉楽』と連なる中上の代表作群は、奇跡的な均衡を保ったことで記憶されるべき作品である。実際、『枯木灘』を完成した中上は、絶えずこの均衡に留意しながら書かねばならなくなる。彼が本来気を配る必要のない物語性、本質的なものであったとは思えない「父殺し」のモチーフから、中本の一党のまがまがしい生まで、時にはそれがフィクションをこころよく慰撫してくれるがゆえに切り離しがたく保持し続けた物語性と、それを突き放す細部との均衡。
『枯木灘』という長編小説(間違いなく傑作だが)は、なぜこれがまとまった小説として差し出されなければならなかったのだろうという思いに僕を駆り立てる。