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むかし、友人と文学談議をしていて、大江健三郎をこき下ろし、中上健次をもち上げたことがある(僕は大江健三郎を好んだことはない)。その友人は熱狂的な大江ファンであった。
中上健次を賞賛する僕に、大江ファンの彼は言った。

「じゃあ、お前は『奇蹟』の郁男が死んだ場面も良いと言うのか」

中上健次の『奇蹟』の中盤よりやや後寄りに出てくるエピソードに、『枯木灘』の主人公・秋幸の種違いの兄の郁男が自殺する話がある。中上健次の兄は実際に自殺しているが、それを踏まえたようなエピソードだ。
『奇蹟』では、郁男は主人公タイチと同様、ヤクザになっている。この作品の内容はまあ「仁義なき戦い」みたいなものだが、細部の表現がやはり中上らしくおもしろい。読後、作品全体が非常に美しく感じる作品である。
しかし、件の郁男自死のエピソードは、とたんに文章が弛み、風呂屋のペンキ絵みたいになってしまう。郁男の亡骸をめぐって、まだ少年期の秋幸が俺が兄の仇を討ってやる、と息巻くところなど、ほとんど劇画である。「あれも極道になるんかの」といったタイチらのベタなセリフがそれに続く。クサい場面といえる。
たしかに友人が言う通り、郁男の死のエピソードは良くない。こういう瑕瑾に類する場面を中上が書いてしまったのはどうしてなのか。亡き中上自身の兄の死と重ね合わせて、クサく描かずにはいられなかったのだろうか。
似たような瑕瑾はプルーストにも存在する。『失われた時を求めて』の第三篇「ゲルマントの方角」。この巻のなかで、主人公の祖母はついに死ぬ。尿毒症を患った果ての死である。
ところが、この祖母の死のあとの場面展開のクサさったらない。亡き祖母をこの上なく美化しようとする。祖母の死に顔は少女の頃の面影を宿していた、などという文章でこの挿話を締めくくっている。フローベールの「純な心」のフェリシテの死に劣ること数段である。
プルーストでさえ、近親者の死を描くとペンキ絵になってしまう。この二つの瑕瑾の例は、僕にとって二つの反面教師である。