またマルセル・プルーストのことを考えていた。
プルーストを二十世紀最大の小説家だと称賛する人はいる。フランス本国では別格な扱いで、権威ある百科事典か何かの表表紙がデカルトで、裏表紙がプルーストのポートレートだという話を何かで読んだ。つまりこの二人がフランスを代表する文化人だというわけだ。
しかし、フランス以外の場所では、プルーストを高く評価しても、二十世紀最大とまで持ち上げる人はそう多くない。特に、英語圏や英語の影響甚だしい地域では、ジェイムズ・ジョイスを二十世紀文学の代表と考える人は多いだろう。そこにカフカとプルーストが混ざって、三羽烏みたいになる。しかし目立つのはなんといってもジョイスで、ほかの二人は付き添いのような扱いである。
ジョイスを持ち上げる人は二十世紀はジョイスの世紀だと断言できる。少なくとも、そう判断するのに抵抗はないと思う。
確かにそうで、『ユリシーズ』にはモダニズムと言われるもの、極端な実験が溢れている。これはまさしく彼の時代の表現で、彼以降の世界を開いたものなのである。
カフカは死後、かなり影響を与えてきた。有名な『変身』のエピソードみたいなありふれたものだけでなく、音楽家や劇作家にもカフカを題材にする人たちは多い。カフカの一生そのものが、いくらか伝説的に語られている。なぞめいた短い作品、あるいは作品のなりそこないの切れ端。
カフカには、ナチズムとそのホロコースト(現実にカフカの妹たちは収容所で殺された)を思い浮かばせる面もあるにはあるが、彼のようなタイプの書き手はあちこちにいて、それは小説家に限らないという印象が強い。例えば、ヴィトゲンシュタイン。例えば、宮澤賢治。例えば、キルケゴール。通俗的な比較と思われるかもしれないが、彼らのテキストが似た印象を残すのは確かだろう。
その意味で、カフカは一つの時代や地域を超えたある特定の型に属するという気がする。
ジョイス、カフカに比べると、プルーストは異色である。彼を包囲しているフランス本国での名声にもかかわらず、プルーストには彼が共有した同時代にも、または過去にも、彼以後の時代にも似たところがない。
簡単に言えば、プルーストは過渡期の人だと思う。過渡期なので、前の時代にも後の時代にも属さない。モダニズムにくくられることはあるが、ジョイスやヴァージニア・ウルフの実験性に比べれば取るに足らないし、フランス語圏でも、二次大戦後のヌーボーロマンの方がずっとモダニズムっぽい。
むしろプルーストは時代に取り残された小説家かもしれない。自然主義やロマン主義、印象主義といったものにとどまったわけじゃなくて、彼はもっと古いものから吸収した。例えば、彼が友人に宛てた手紙には「千一夜物語のように長くなる」との言葉がある。プルーストは十九世紀末に新訳が出た『千一夜物語』の愛読者だった。『失われた時を求めて』は、確かにマルタン・デュ=ガールの『チボー家の人々』やトーマス・マンの『魔の山』のような小説より、千一夜に近いと言えるかもしれない。
また、近代作家からの影響や受容もプルーストは独特で、ジェラール・ド・ネルヴァルを好み、影響されたと言っても、ロマン派の小説や詩人全般を好んだわけではない。ユゴーやゴーチェに関しては、敬意は表するが、直接のつながりはなさそうである。
フローベールについては優れた批評を残したが、フローベール的な表現からは一線を置こうとする意識が見える。
というわけでプルーストは過渡期の小説家ではないかと思うのである。彼は象徴派の詩に影響を受けたはずだし、ネルヴァル式のエッセイっぽい語りの影響も受けている。また、リアリズムである。彼の前の時代の刻印がありながら、『失われた時』じたいは前の時代のどれにも属さない。後の時代への影響はあるが、プルースト好きが書いたものは、クロード・シモンのようにバロック的になるか、または思索の要素を強調するかで、とうていプルーストそのものの亜流はいない。そもそも亜流を許さない作風かもしれないが、そうなった理由は、むしろ『失われた時』の世界が古くさいからではなかろうか。二十世紀の半ば頃には、華やかな社交界やブルジョワ一家の生活も様変わりした。真似するには古すぎるものになってしまい、プルーストはある意味で取り残された。
『失われた時を求めて』第一巻の発表は1913年だが、間もなく一次大戦が起こった。大戦後、西欧でダダイズム、シュルレアリスムなどの新しい前衛が台頭し、それ以前の書き手は旧世代と呼ばれた。プルーストはアバンゲール(戦前世代)だし、自分でもそう認識していたと思う。一次大戦後に『ユリシーズ』を発表したジョイスは、世代は前であってもアバンゲールには入らない。ジョイスは1920年代の前衛文学の旗頭だった。
プルーストは、「意識の流れ」派の一人と見なされはしたが、作品に描かれた世界が昔ながらのフランス上流社交界なので、やくたいもないと考える人たちもいた。エズラ・パウンドなどは、ジョイスの『ユリシーズ』に関する批評で、プルーストとヘンリー・ジェイムズを並べてこきおろしている。
プルーストは存命中から高い評価を得たが、『失われた時』は当時もいまも不思議な存在であり続けている。その理由は、結局、過渡期を生きた作家によるどこにも属さない小説だからであろう、と僕は思う。
