投稿者:追放者
藤岡 弘と木村一八?だったっけの”野獣死すべし”見ました。
金狼の件でも書き込みしながら考えたのですが,難しいんですね,文字で書かれた物を3次元で表現するのは。
読者の情報は文字のみ,頭の中で3次元,それに時間の要素を組み入れてイマジネーションというか,ストーリー以外の舞台をそれぞれの読者が造り上げてゆくことになりますよね。そうすると読者個人個人で原作大薮春彦,演出は読者というものができあがる。読者の数だけのスコープが存在することになる。私のはこうですって言う感じで一人の監督,一人の演出家による映画が封切られる。共感するものもあれば無関心なのも唾棄すべきものもある。それが文字→3次元+時間の変換では必然である。だから原作大薮春彦,監督・・,演出・・・なのである。
感想はまだまだ自分の感性に食い込み,芯までえぐり出すような画像作品は見ていない。
原作の文字を忠実に演出をするには制約が多すぎる,ましてや伊達邦彦自身の存在が希有なものであるから。
自分以外の何ものの物ではない自分のための理想,夢を追い求めることこそが大薮春彦の出発点ではなかったかと思う。若さゆえのコントロールを欠いた自我の爆発を含めて。読者の数だけ伊達邦彦が存在することにはならないか?。