では、社交ダンスの将来はどうなっていくのでしょうか?
皆さんは未来を予想する場合にどのような方法を選びますか?
占い師に尋ねるか、競馬ならスポーツ新聞、お天気なら気象予報士でしょうけど。でも、私はシンプルでとっても簡単な方法が一つあると思っています。それは…
子供を良く観察すること
なぜなら、子供は未来からの訪問者だから。
子供ほどではないにしろ、若者をじっと観察しても未来がよくわかるはずです。当たり前ですが、人口構成比において、将来は彼らが間違いなく主役になっていくから。
また、私は生物の生存本能で、その生物の次の時代への生き残りに必要な素養を備えた個体が多数生まれてくると思っています。例えば、次の時代が寒ければ、毛の長い耐寒性のある個体が、次の時代に食べ物が少なければ小食でも生きられる個体が多く生まれてくることになるのではないでしょうか。
昭和世代の偏見を拭い去り、客観的な目で冷静に子供や若者のありさま、考え方等を見ていけば、そこに未来が見えるはずです。どうしても昭和世代は、「最近の子供は~」、「最近の若者は~」と自分目線の価値観で判断したくなりますが、「判断」を排除してバイアス無しで客観的な目で現状を観察すると、そこに未来の世の中の姿が見えてくるのではないでしょうか。
まあ、未来予想なんて、それが正確に当たっていればいるほど嘘っぽくてしょうがなかったりするものかもしれませんし、逆に、実際の未来と異なる大外れの予想でも、権威のある人の言葉だったり、現状の延長線上の予想だったり、または自分の望む未来だったりすれば、それっぽく聞こえるものかもしれません。
例えば、江戸時代末期の人に、あと数十年したら貴方のお殿様は居なくなる、将軍様も居なくなる、居なくなるどころか失業して路頭に迷うものも出てくる、お城も殆どが解体されて無くなる、なんて言っても誰も信じないでしょうし、頭がオカシイやつ扱いをされるだけでしょう。まぁ、未来予測なんて当たっていてもそんなものだと思いますけど。
と、いいつつ、自分なりの未来予想をしてみると…。
まずは、容易に想像できる将来像の一つとして、学校が無くなるのではないか、と思います。なぜって、シンプルに学校に行かない子供が増えているから、それだけの理由です。
学校に行かない子供は、少し前は「登校拒否児」なんて呼ばれて社会不適応扱いされていましたが、今は学校に行かない子供は尋常じゃない勢いで増えています。その級数的な増え方からして、もうすぐやってくる未来の社会に不適応なのは、学校に行かない子供じゃなくて、今の学校のほうなのだと考えたほうが自然なような気がします。
もちろん、熱意があって優秀な学校の先生もたくさん知っていますし、学校関係者の努力があることも承知しています。私は、それらの人たちを批判しているわけではないことをご理解ください。多数の方々から異論や批判が聞こえてきそうですが、前述の通り、目の前で起きている現象を、経験則やバイアスを排除して素直に見ると、そういう見方が自然なように感じてしまって、私はそう予想する、というだけのことですから。以下、同様に考えていくと…。
お酒を飲む習慣は無くなるのではないでしょうか。数十年後の未来。酔っぱらって気持ちよくワイワイやっていて、ふと周りを見ると同世代(昭和世代)のおじいちゃん、おばあちゃんばっかり。チラホラと平成世代はまじってはいるけれど、令和世代はまず見かけない。しょうがないなぁ、うちのおじいちゃんは、おばあちゃんは、なんて令和世代の孫やひ孫が迎えに来るとか?まーその頃は自動運転の無人の車とかでしょうか。
テレビも無くなるような気がします。今の若者はびっくりするくらいテレビ見ないですよ。そもそもテレビ自体を持っていない人が多いですし。一方で、昭和世代はテレビ好きが多くて、いつもテレビが話題の人が多いような気がします。飲酒の習慣と同様に、世代間で嗜好の方向が好対照なものの一つがテレビではないでしょうか。
それから、前述の「学校」と全く同じ理屈で、無くなりそうなものがありますね。これまた異論が噴出しそうですが…。
選挙に行かなければ日本はおかしくなってしまう。選挙に行って自分の投票で日本を変えよう、良い日本にしよう、というのが昭和世代の共通認識ですが、令和世代にはあまり響いていないように思います。
今の若者が政治に無関心なのは、将来の世の中に対して無責任だという考えがあり、それも一理あると思いますが、そればかりではないような気がします。
このように考えたら考え過ぎでしょうか。
彼らは本能的に何処かで知っているのだと思います。政権を取るのが○○党であろうが、△△党だろうが、何も変わらないことを。それどころか、「用意された選択肢の中だけでしか選べない」制度そのもの、制限された枠のハメられ方そのものがオカシイのであって、今の選挙など茶番であることを。
つまりは。。。
学校に行かない子供が社会不適応なのではなくて、学校が将来の社会に不適応なのと同じ理屈で、選挙に行かない若者が社会不適応なのではなくて、選挙制度そのものが将来の社会に不適応なのだ、と考えたほうが自然なのではないでしょうか。
では具体的に、今の選挙制度や政治の何が将来の社会に不適応なのか。私の個人的な考えは多々ありますが、「昭和人間の判断とバイアス」はここでは「排除」するとして。
近い将来に無くなるものは、職業としての「政治屋」…かもしれません。今の政治に興味がない彼らがマジョリティーになる時代には。
それは、江戸時代末期の殿様みたいなものかもしれませんね。
確かに、メクジラ立てて選挙に行けって叫んでいる人たちには(それが決して悪いことだとは思いませんが)、○○党を△△党にして首を挿げ替えることはできても、政治体制そのもの、と、いうか世の中の人のありようそのものを根底から変えることはできないのかもしれません。それは、次世代の選挙に興味が無い彼らの仕事であり、責任なのかもしれません。
考えようによっては、学校に「行かなくてはならない」、選挙に「行かなくてはならない」、なんていうのも一種の洗脳のような気もするのですが。
さて…。ずいぶんと前置き?が長くなってしまいました。
では、社交ダンスはどうなるのか?
今までさんざん、無くなるものや衰退するものばかり触れてきましたが、前回も書いたように、ダンスは無くならないのではないでしょうか。
ただし、現在の楽しみ方とは、かなり変わっているでしょうね。今の若者は物欲が少ないように思います。お金やモノの所有にあまりにこだわりません。もちろん、昭和世代と比べれば、ですけど。車も必要ない、家も要らない、ブランド品も、会社での肩書も、あまり欲しがりません。
そんな彼らが大切にするのは、「自分なりの心地よい生き方」。流行や世論に惑わされない個性のように思います。
決められたルールの元に一斉に同じように踊って、その中で誰が優れているのかを競う、なんていうスタイルは廃れていくような気がします。豪華なホテルでスポットライトを浴びて皆の賞賛と羨望のまなざしを浴びる、という昭和スタイルにも彼らは興味が薄いような気がします。
ストリートであれ、山奥であれ、場所を選ばずに、踊りたいときに踊りたい人と、踊りたいように踊る。自分が如何に楽しんでいるか、周囲の風景、観客と一体になっているか。
大切にするのは自分なりのスタイル、個性。仲間にリスペクトされるのは如何に個性的に踊っているか。その場を楽しんでいるか。
一時の「爛熟期」はそれなりに楽しかったけど、やっぱりダンスは、ダンス本来の姿に戻っていく。そんなふうに思います。