才能のことを英語で「Gift」ということがあります。この世に生を受けるにあたっての神様からの贈り物。幸か不幸か、ダンスに関しては、この天賦の才が大きく影響するジャンルであるのは否定できないようです。

 

しかし、同じダンスに関する能力であっても、自らをダンスで表現する自らの審美性と、他人のダンスの表現を理解する審美眼とでは、その「天賦」にかかる割合が大きく異なるようにも思います。

 

「お金と時間をこんなにかけたのにあまり上達しない」

 

社交ダンスをやっていてよく聞かれる言葉です。

 

一方で素晴らしいダンスを見極める審美眼は、かけたお金と時間にある程度は比例していくのではないでしょうか。逆に言えば、生である程度一流のものをたくさんみないと(=お金と時間をかけないと)、一流のダンスの本当のところは理解できないように思います。

 

一流の選手がまとう雰囲気、ふるまい、試合の空気感、躍動感、緊張感などの、「本物」を理解する能力はある程度良いものをたくさん見ないと身につかないのではないでしょうか?

 

長い間社交ダンスをやっている方々のお悩みが深くなるのは、もしくは、いわゆる「ダンス沼」にはまっていくのは、この自らの審美性と他人を見極める審美眼の、能力の差が乖離していくことが原因のひとつのように思います。

 

だんだん良いものが分かってくると、それが欲しくなるのは人間の自然な欲望なのだと思います。必ずしもそれが手に入れられなくても、その一流の有り様に自らの姿を重ねて妄想して楽しめるのがダンスのもう一つの楽しみ方でもあるでしょうし。また、上手な先生と踊ってもらえれば、ある程度はそれが叶ってしまう場合すらあるでしょう。世知辛いことに、これまた「お金」をかければ、ですが。

 

目や心の保養となると同時に、沼は深くなるばかりかもしれません。

 

天才作曲家・モーツァルトを描いた映画、名作「アマデウス」の中で、当時の宮廷作曲家であって栄華を極めていたサリエリは怒りに震えてこう言います。

 

「神は不公平で、残酷だ」と。

 

「モーツァルトには、歴史に残る音楽家となる天賦の才能を与えた。しかし私には、モーツァルトの持つ才能は与えずに、モーツァルトの「天才ぶりを理解する才能」のみを与えた。」と。

 

確かに…。

 

死後はともかく、その初期には決してすべての評判が良いわけではなかった当時としては先鋭的過ぎたモーツァルトの天才ぶりの本当の凄さを最も理解していたのはサリエリだったかもしれません。そして、それはおのれの凡才ぶりを痛感することでもあったかもしれませんね。(サリエリも十分に素晴らしい音楽家なのですが)。

 

それくらいの能力があったなら、解説者になるとか、解説本書いて儲けるとか、ユーチューバーになるっていう選択肢もありますよー。

 

現代なら。。。