藤原鎌足(中臣鎌足)のミイラが眠る 〜阿武山古墳〜 | ドルフィンファームで逢いましょう!〜 一口馬主とテシオ理論、そして、うちの子〜

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競馬歴49年、血統マニアの私ドルフィンが、競走馬の血統や配合を、血のロマン、個人の好き嫌い、固定観念を交えて語るブログです。

うちの子ファニーは、2021年6月23日、虹の橋を渡りました。


​阿武山古墳 封印事件

藤原鎌足といえば中大兄王子と蘇我入鹿🐬を宮中で誅殺したクーデター(乙巳の変)の首謀者として有名な歴史上の重要人物の1人だが、その鎌足の墓の存在はあまり知られていない。いや、知らされていないと言ったほうが正解かもしれない。


墓が発見されたのは、1934年(昭和9年)京都大学地震観測所の工事の際に偶然見つかった。墓には数々の貴重な遺品と、骨・肉・毛髪が残る成人男性の完全なミイラが埋葬されていた。その出立ちから当時の権力者であり、相当高貴な人物と思われる。発掘時は世紀の大発見!とマスコミにも大きく取り上げられ、見物客も大勢訪れたらしいが、十分な調査を行わないまま埋め戻された。


調査をしなかった理由は、京大内の派閥争い、自治体の小競り合い、内務省の圧力、諸説あるが今となってはどうでもいい。


あれから88年が経過してしまった。現在、墓は国の史跡に指定されているが宮内庁の管理下にはない。まともな保存技術を施されることなく埋め戻されたため、遺品は残っていても、遺体の状態は絶望的と思われるが、1日も早く発掘調査を再開して欲しいと願っている。


▲発掘当時の墓室



▲発掘当時の棺 夾紵棺(きょうちょかん)


長さ1.97m/ 62cm/高さ51cmで,20枚以上のあらい布を重ね,表面には黒漆、内側には朱漆が塗られた『夾紵棺』初めて発見された。『夾』は重ねる、『紵』は麻布を意味する。当時で最高級の棺であり、かなり身分の高い人物が埋葬されているはず。



▲発掘当時の遺体(左が頭部)


遺体は身長164㌢、60歳代の男性、1987年(昭和62年)に発掘当時撮影したX線写真が多数見つかり、それらを解析した結果、肋骨を損傷していたことなど、新たな事実が判明する。史料によると鎌足は亡くなる直前に落馬し、その怪我から体調を崩し亡くなったとある。


​墓室の復元図


​夾紵棺(きょうちょかん)


職帽

大織冠という冠位が使用されたのは647年から685年、大織冠を授かったのは歴史上で鎌足のみ。


玉枕


当時、発掘されたこれらの貴重な遺品はそのまま埋め戻されてしまったが、この高価で豪華なものを身に着けていた被葬者は当時の権力者である藤原鎌足が有力とされている。


なぜ調査は中途半端で不十分だったのか?今の技術をもって発掘調査は再開しないのか?


資金が無いとか、高貴な人物、皇族である可能性があるから非礼にあたる、みたいな理由は通用しない。他国の王家の墓を掘りまくる日本人がいるし、国や宮内庁がやらないなら外国の資金と人材でやればいい。


私が思うに、知られてはいけない何かが隠されている。埋め戻したというのはウソかもしれない。鎌足の正体、藤原家の外戚で引き継がれた現在の皇室、あーこわい怖い😱


この阿武山古墳に人々の注目が集まることを望まない勢力があることは間違いない。


ということで、現地に行ってみた。


  現地視察 2022.05.03

▲古墳の入口である京都大学地震観測所のゲートは封鎖されており一般車両は通れない。ここまで来て帰ってしまう人もいるだろう。



▲登山道入口


▲この日はGWで天気も良く、登山客や観光客が少なからずいた。


▲しばらく山を登ると金網フェンスにブチ当たる。右が山頂へ向かう登山道、ついついソチラへ脚が向いてしまうが、


▲この掲示板の周囲に古墳、墓をイメージするものは何も無い。



▲阿武山古墳



墓室の周囲はタイル敷で整備されているが、鎌足の墓とは到底思えないほど質素、地味だ。とにかく、観光客は来てくれるな、触れてくれるな、人を寄せ付けない『気』を醸し出している。この『気』の感じ方は、飛鳥の大職冠神社、鎌足の産湯を訪れた時と同じだ。鎌足の墓で間違いないと個人的には思っている。
 


『貴人の墓』という曖昧な表現はやめ、再調査をした上で『鎌足の墓』と改めて欲しい🐬